戦陣の日々  金谷安夫著 

パート6 

第二部  慰霊旅行 ・ 遺骨収集 ・ その他

◆ 復員後

鹿児島復員局

山下小学校に鹿児島復員局があり体育館が我々復員者の宿舎であった。

先着の民間人の引上げ者も多く、我々24名も体育館の一部に席をとり

復員手続きを行う。

 

港に着いたとき新聞社の記者が私の事を聞き、即座に冷水町の自宅まで

行って連絡してくれたので夕方には家族揃って面会に来てくれた。

 

それはそれは嬉しく手を取り合って無事を喜んだ。しかし、

門の前で立ち話をするだけで中には入れて貰えなかった。

 
被服の引き替えが行われた。新しく支給されるのではなく、
持っている被服を引き替えるのであり、否応なく取り替えられてしまった。
 
我々はサイパン出発時に収容所長から、日本は物不足だから、
出来るだけ良い物をもって帰れといわれ、交換できるものは総て
 新しい物と交換して持ってきたものだった。
それを有無を言はさず引き替えられてしまった。
ウール100パーセントの新品の毛布は日本軍で使い古したよれよれの物と
替えられてしまった。
 
服もズボンもシャツも靴も総てが引き替えられ、がっかりすると同時に
憤りさえ覚えた。アメリカ軍は親切にしてくれたのにと思うと何だか
日本の官僚には全く親心がなく信じられない思いにかられた。
 
交換した新品の毛布は如何になったのだろうか。服は、ズボンは、靴は。
 
皆一階級ずつ進級して私は上等機関兵と言い渡された。
本来ならば3年で善行賞がつき二等兵曹になっている筈であった。
地に行き部隊が全滅したため上等兵にしかなれず不満だった。
 
それから各隊の下士官は1名ずつ事務室に来て現地の状況を説明しろとの
連絡がきた。私は七六一海軍航空隊の一等兵だったが部隊では私独りが
帰ってきたので行ってみたが来る必要はないと言う。
 
サイパンを出るとき、生存を国に知らせるためを思い、七六一空生存者の
名簿と終戦後投降した47名の名簿を持ってきていたので見せたら、
これだけは貰っとく、とのことで復員局に取り上げられた。
 
最も重要なのが給料である、『取り敢えず1300円づつ支給する。
整理が済み次第残金は精算して送付する。警察沙汰で行方不明になる事の
ないよう注意しろ』との事だった。
 
 1300円貰い大金持ちになった気分だったが、未だに精算されないまま
 現在に至っている。
復員局最後の日、『諸君の奮闘に感謝してぜんざいを御馳走する。
日本は今食糧難で砂糖も不足しているが特別に十分砂糖をきかしてあるので
内地の味を賞味してくれ』との事だった。
 
食糧難は筑紫丸の給食で味わっていたので分かっていたが、
そのぜんざいを見てまた驚いた。底に小豆がほんの少しあるだけで、
汁は僅かに小豆色に染まっているが殆ど透明である。一口啜って驚いた。
 
十分砂糖がきいているはずだが、殆ど甘みがない、汁はさらさらして、
とろみが全く無い、小豆を噛んで食べることを思い浮かべて汁を啜る
だけだった。
最後に驚いたのが何と1杯のぜんざいが10円かかるとの事だった。
命を掛けて戦った代償の300円はぜんざい30杯分でしかなかった
ことである。
最後に食糧が支給された。郷里まで帰還に要する日数により軍用の
乾麺包(乾パン)を支給すると言う。最も遠いところは北海道だったが、
汽車で4日かかるので乾麺包を4袋貰っていた。私は1袋貰った。
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 復員局では何だか嫌で不満な思い出しかなかったが局の職員に

礼を言って別れた。鹿児島駅までトラックで送って貰った。

 

私も駅まで行き見送ったが列車は超満員で窓に掴まったものもいた。

あれで北海道まで4日間の長旅はさぞ大変だろうと思った。

 
父も同行してくれていたので、2人で市役所に行き父の案内で
諸手続きを済ませ父と一緒に歩いて自宅に戻った。

懐かしの我が家

出発のとき武運長久を祈願した長田神社は健在だったが周辺は

焼夷弾で燃えたのだと言う。帰る途中の家は殆ど焼けトタン板の

 バラックになっていた。

 

我が家の下にあった伯父の家は物置小屋を残して焼けており、

伯父と叔母はその小屋で暮らしていた。

 我が家は幸い焼けずに残っていた。仏のご加護か神のお守りか

助かっており何よりだった。

 

草むした古びた我が家であるが懐かしさで一杯である

。父も母も元気だったので一安心だった。昭和191月末、

私が鹿屋航空隊にいたとき、休暇で帰宅して、父にバリカンで

髪を刈ってもらいながら『この髪を残して置いたら』とテニアン島への

転進を伏せたまま話してみたが、「その必要もなかろう」と

強気を言っていた父の言葉を思い出しながら、2年半ぶりで私は懐かしい

我が家のその縁側に座り、数奇な運命を噛み締めたのであった。

 
弟の繁は乾(いぬい)汽船の船乗りで、海軍に徴用されて軍属になり、
昭和19年5月3日サイパン島沖で敵の魚雷攻撃を受け沈没した。
そのとき繁は当直で、機関室におり脱出できず戦死した、
と乾汽船の人がきて説明してくれたとのことであった。
 
籍謄本には、昭和19年5月3日時不詳南洋群島方面に於いて戦死、
呉海軍人事部富永昌三報告、昭和20年2月7日受付けとなっている。
 
次の弟の研三は海軍航空隊に入隊、戦地には行かず、二等整備兵曹で
退役し、鹿児島市役所の交通局に勤めていた。
 
妹の優子は女学校を卒業し、谷山の田辺航空機製作所に徴用されていた
という。末の妹薩子は、まだ女学校に通っていた。
 
5人兄弟の上から3人が男で、いずれも海軍に入り、中の弟の繁1人が
戦死していた。妹の優子も軍需工場に徴用されていたので、兄弟5人中
 4人までが戦争に協力したことになり1人が犠牲になったのであった。
 
サイパンの収容所から第一陣で帰った津田兵曹が、父に手紙を書いていて
くれた。私の戦没通知を受け取った直後に津田兵曹の手紙を受け取り、
家族全員が喜んでくれたことと思う。
 
父が津田さんから貰った手紙はないが、母が津田さんに出した手紙
後日津田さんから私が貰った。今では母の形見となり、また、
身近に終戦当時の様子を知ることができる唯一の物となったの
その内容を次に記す。
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母の手紙

  

表 福岡県三井郡上津荒木村   裏 鹿児島市冷水町四九
  津田 和市 様         昭和二十一年三月二十三日
                  金谷貞辰
  
  
お葉書ほんとにうれしく何度も何度も繰り返し繰り
返し拝見致しました。
長らくのご苦労も水の泡となって敗戦に終わりまして、
返す返すも残念なことでございます。
ほんとに長い間どんなにご苦労なさいました事でしせう、深く深く
お察し申上げますと共に、厚く厚く御礼申し上げます。
 
御無事御復員なさいまして御家族の皆様も嘸々(さぞさぞ)
御満足御安心の御事で御座いませう。
 
扨、御推察通り本月九日 安夫は十九年八月二日南洋群島方面に於いて
戦死との広報に接しまして、家内一同悲嘆にくれて居りましたところで
御座います。
まるで夢のやうな気がいたします。同じ年の五月三日に二男が
サイパン島にもう十時間で着といふところで撃沈戦死いたしました。
 
安夫の方は本年二月分まで佐世保から給金を送って下さいましたので、
まさか戦死とは夢にも考えませず只々復員の日を待ちわびて居ました
ところとて、悲しみも一入深ふ御座いました。
 
来月二日にはお葬式を致しますつもりで、去る十七日主人は元の会社へ
戦死の通知や在職中の御礼をかねまして、残して居りました荷物引取りの為
長崎へまいりまして今夜当たり帰宅するのではないかと存じますが、
帰りましたらどんなに喜びます事でせう。
 
早く帰ればと待ち遠しい気がいたします。
ほんとに有り難う御座いました。主人に代わりまして私より有り難く
厚く御礼申上げます。
 
猶貴方様はどちらから何日頃御帰りになりましたのでせう、
そして内地はどこへお着きになりましたのでせうか、御伺ひ申上げます。
安夫は何処に居ります事やらと考へますと飛んでも行きたい気がいたします。
 
いつ頃帰れますか貴方様にはおわかりになりませんでせうか、
御労れのところほんとに申上げかねますが、私共の気持ち
お察し下さいまして、どこでお會ひになりましたか、
またどんな暮らしをして居りますか、お知らせ下さいませんでせうか。
何分々々お願い申上げます。
 
扨、復員の時期や引揚港も御わかり御座いましたら御一報
お願い申上げます。
あまりのうれしさで、自分勝手な事ばかりかきつらねまして
御許し下さいませ。
 
猶、時候不順の折柄くれぐれも御出征中の御体御いとひ下さいますやう
御願い申し上げます。
当市も殆ど全滅にひとしいほどで御座いますが、私共は幸残って居ります故、
 御労(おつかれ)がおやすめになられましたら、ゆるゆるお遊びに
御出で下さいませ、お待ち申し上げて居ります。
 
先はとりいそぎ御礼かたがた御願ひまで。         
三月二十二日                     かしこ。
津田和市様                           
                           金谷千代子
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母から津田兵曹への手紙を読んでみると、第一報の手紙の内容は

私が生きているだけの通知だったのではないかと思われるが、

 父母の喜びは一入だった事だろう。

 
昨年の昭和20815日に終戦となり、息子が戦地に行った儘で
音沙汰なく、今年(昭和21年)2月も佐世保から給料が送付されて
来たので、生きては居るとは思っていた矢先の39日戦死の広報を
受け取っており、弟の繁に続き長男の私まで失い悲嘆にくれていた
事だったと思う。その悲嘆に沈んでいる時、津田兵曹の手紙が
 20日前後に届き福をもたらした。
 
そして又、大きなドン伝返しとなった。
父の頭の白髪も黒くなった事だろう。私は戦死して約十数日後には
 復活した事になる。しかし、それは私か弟の繁であるかこの時点では、
はっきりしていなかった。
 
生きているのは間違いないとしても、何処でどうしているのか知りたくて、22日付けの母が津田兵曹に出した手紙の返事が来たようである。
前回同様、津田兵曹からの手紙はないが、返事として書いた母の手紙を
津田さんから貰ったのでその内容を次に記す。
 
表 福岡県久留米市外上津荒木下村     裏 鹿児島市冷水町四九  
   津田和市様               四月六日  金谷千代子
 
 
前文御免下さいませ。
 
扨、先日は御労のところをもかえりみず、御面倒な事御願い
申し上げましたところ、早速委しき御返事下さいまして間違いでもなく
長男である事を知る事が出来ました。
誠に誠に有り難う御座いました。厚く厚く御礼申上げます。
 
直ちに御礼状差し上げますべき筈のところ、眼鏡の置きどころを
忘れました為、ペン取る事も出来ませず本日まで延引いたしました。
御無礼何卒々々お許し下さいませ。
 
承りますれば貴方様には御負傷なさいました由、その後の御経過は如何で
御座いませう、何卒々々一日も早く御全快のほどを御祈り申上げます。
御帰りになりました時の皆様の御喜びは御戦死の広報を受けて
居られましただけに、一入深ふ御座いました事でせうと御察し申上げます。
私共では、ほんの二週間ほどの悲しみですみましてよろこんで居ります。
 
其上何より心配して居りました食糧が十分御座います由で、
何よりうれしく存じました。
今、日本に帰ってくれば、さぞさぞ困ります事でせう。
私共のやうに田舎に知りあいの御座いません者は、お米一升、
芋一貫さへ手に入れる事が出来ませんので、闇市場の高いお野菜を
 買ってきましてどうにか、其日々々を過して居ります。
 
新円に替りましても物価も下りませず困った事で御座います。
度々の空襲で全市の八割まで焼けまして、残って居りますのは
山手とか市外に近いところだけで御座いますので、品物が全然
 なくなりましたからでせう、主人が長崎から帰りまして、
鹿児島とはくらべものにならぬほど何でもある上に、お安いと申しまして
驚いて居りました。
 
市内に初空襲を受けましてから来る八日で満一ヶ年になりますが、
ほんとに早いもので御座います。
んなにひどくいためつけられて居ります上に、一年後の近頃は
桜島の噴煙で困らねばならず、よくよく悪い運命にまわり合せたものです。
 
近頃のまま続きますと農作物も出来が悪くなるのでは御座いませんでせうか。
今年の夏が思いやられます。ひどい日はまるで雨でも降りますやうで
目もあけられぬ時も御座います。
何しろ三センチ位積もって居りました。 
 
お天気のよろしい時は少し風でも吹きますとつもってゐた灰がとびますし、
洗濯も思わしく出来ない位で御座いました。
し、ここ二三日は降りませず助かって居ります。
 
貴方の地方はあまり空襲は御座いませんでしたやうに思いますが
如何で御座いましたでせう。昨年の今頃の事を考えますとぞっと致します。
私共はおかげ様で事なくすみましたが親類は皆焼けてしまゐました。
 
勝った戦争で御座いますれば諦めもつきますが、負けいくさでは
罹災なさいました方は一入お諦めにくい御様子で御座います。
別に今のところでは御見物なさいます所も御座いませんが、
焼跡見物かたがた御遊びにお出で下さいませ。お待ち申上げて居ります。
末筆失礼ながら御家族御一同様へくれぐれも御よろこびお伝へ下さいませ。
猶、時候不順の折柄くれぐれも御養生専一に御全快の一日も御早いやう
御祈り申し上げます。
先ずは延引ながら右御礼まで。
                                          さようなら
四月六日                               金谷千代子
         津田和市 様
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 津田兵曹の第2信で、生存しているのは私で、サイパン島の収容所に居る、

給与は良く皆丸々と太っていると言う事が分かり安心した様子である。

老眼鏡を置き忘れたと言うが当時の母は48才、父は54才の時であった。

 

母は食糧を心配していた様子で、私が帰ってくればなお食糧が不足すると

心配している様子が伺えた。鹿児島市内は8割が消失し物価が異常に高く、

長崎は安く量も豊富だったとの事である。

 

当時の状況が如実に現れているので、この貴重な手紙は今も大切

保管している。なにを思ったのか、津田兵曹が、返してくれた事に

感謝している。そして、この手紙は母の形見として大事に保管している。

改めて津田兵曹にお礼を申し上げる。

戦没通知

 毎日定時に出勤し定時に帰宅していた父が突然早く帰り、

母に早くここに座れと言って1通の封書を差し出した。

 
封筒には 冷水町四九  金谷貞辰 殿  親展
裏は 鹿児島市役所  海軍 と印が押してある。
 
只事ならじと開けてみると、それが私の戦没通知だったのだと言う。
次男の繁を失い、今度は長男を失い、3人の中の2人まで失い悲嘆に
くれたことであろう。
 
当時父は市役所に勤務していて通知を直接受け取り、直ちに帰宅しての
事だったと母は話していた。
 
私の戦没通知を記す
 
 
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  戦没通知
 
          昭和二十一年三月八日
          鹿児島市長代理   米山恒治 印
       
           父
           金谷貞辰殿
           今次聖戰ニ従軍 各地に赫々タル武
           勲ヲ樹テラレシ
           海軍上等機関兵
                金 谷 安 夫 殿ニハ
           昭和十九年八月二日左記ノ通リ
           遂ニ護国ノ神トナラレシ旨広報ニ接ス
           真ニ哀悼ニ堪ス   茲ニ取敢ヘス御
           通知申上ルト共ニ深甚ナル哀悼ノ
           意ヲ表シ申候
 
             記
           死亡場所   南洋群島方面
           死  別   戦 死
  
 
わら半紙にガリ版刷りで必要箇所を青色のペンで書いた、全く粗末な
戦没通知である。この粗末な通知1枚で、息子を死させられた父母は
いかなる思いであったことか、当時の父母の悲しみが想像される。
 
また、私にとっては軍に籍を置いたことを示す唯一の公文書となった
のである。
 
私の従姉妹になる加藤康子さんが母に宛てた手紙があった。
康子さんは私より大分年上で結婚後直ぐ満州に渡り、終戦となり
引き揚げ途中、二児を失い着の身着のままで帰国している。
 
国策に従い渡満し一時は楽しい暮らしもあったらしいが、終戦になり
塗炭の苦しみを味わい当時の国策に振り回された様子が良く分かるので
その手紙の一部を紹介する。
 
 
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加藤康子さんの手紙

お寒さ厳しい折からその後叔父上様叔母上様外皆様方には

如何お暮らしでございますかお伺い申し上げます。

余りにも久しき間御無沙汰申し上げておりましたので、

何から申市上げてよろしいやらそのことばさへわからない位でございます。

本当にお懐かしく存じます。
 
 
中略 私共もお陰様で無事に昨年の(昭和二十一年)
八月二十九日に六年振りにて帰って参りました。
只今主人の田舎にて暮らして居りますれば他事ながらご安心下さいませ。
 
さて長崎に引き揚げて早々、小笠原様に参りまして色々と話を
伺いましたが、その時叔母の話で、叔父さまと研三様のお二人
ひょっこり尋ねて一泊されたとの事でその後何とも音沙汰がないとか
申しておりました。
 
そして承りますれば、安夫様繁様にはこの戦争で戦死されました由、
何と申し上げてお慰め致したら宜しいやら分かりません。
せめて勝ってからの戦死でしたら、さぞお家の名誉とか何とかで
少しでもお心の休まる事も御座いましょうに、本当にお気の毒で
ございました。
 
折角叔母様も安夫様を唯一の頼みと御成長を楽しにご苦労されて
お育てなさいましたのに、返す返すも残念な事でございます。
今度の敗戦で、どれだけ多くの人がなくなられました事でしょう。
たとへ戦争でなくても敗戦後の色々の事情で幼い子供まで犠牲に
なってなくした親も多々あります。私共もその一人でございます。
 
満州の通化省内満江縣に居ります時(通化より転任)に日本の敗戦を
耳にしましたが、その時の驚きと悲しみ、それ以来一と月ばかりは
何事もなくその土地で生活しておりましたが、忘れる事も出来ません、
九月十四日に土民に襲われ着の身着のまま家を飛び出して、それより
あちこちと逃れ幸主人も無事でしたが、最後の地では西安炭鉱に逃れて
そこより今度引き揚げて参りました。
 
一時は山の中を真っ暗な夜中に二人の子供を連れて彷徨ったりして
随分お話にはならない程苦労をして、そのあげく子供は栄養不良になり
恵美子三才、英明二才の二人を一時に亡くしてしまいました。
これも日本の敗戦のお陰です。
 
腹が立つ思いが致しますが致し方御座いません。子供を亡くしてみますと
本当に切ない思いでして、どうしても忘れることが出来ません。
今でも何かと子供のことが思い出されて涙にくれる事があります。
 
中略 私共は自分の物は何一つとして持って帰れませんでしたので、
皆衣類もあちこちから貰っているような有様です。
本当に今度の戦争ばかりは馬鹿げた事であり、考えますと腹の立つ事
ばかりでございます。
 
中略 私共は幸い戦時中はかえって呑気にしていましたけど、
停戦後が酷い目に遭い一度や二度ならずもう死を覚悟したこと
ありましたが、今ではそんな事も夢のような気が致します。
只子供が可愛そうでなりません。
 
時節がらお体を大切に遊ばしませ。                        かしこ
         二月三日          
         叔父上様                         熊本県天草郡高浜村
         叔母上様                             加藤康子
 

戦塵の悪夢

 復員当時は、我が家に帰った喜びが大きかった。

また家の修理や物置の整理をするにも、昔と異なり釘1本、

材木1片も売ってはなく、物不足で代用品で間に合わせ、

ないないづくしの生活に慣れるのが勢一杯で、庭の隅まで耕して

野菜を作り自給をはかった。

 

暫くして、それに慣れた頃から、悪夢に襲われるようになり、

戦いで敵に追われたり、貴様はなぜ帰ったのか早くテニアンに帰れ、

など、うなされて飛び起きることが多くなった。

 

七月の復員で暑い盛りだったので昼寝の僅かな時間にも夢で起こされた。

 

 

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向こうの山裾で敵兵がうろついている。こちらは息を殺して見守るばかり。

左にも右にも敵兵が現れ、その包囲網が次第に小さくなってくる、

そして何時しか敵兵の中に取り残される、何時撃たれるか捕らえられるか

只震えているだけ、敵は私に気付かないのか何もしない。

 

私は只息を殺してぶるぶる震えているばかりであった。

その内に息も絶え絶えになり、ハッと気付き現実に戻るのだった。

 
ある時は敵の戦車が私に向かって進んでくる、私はどうしてか全く
身動きができない。只固唾を飲んで見守る、体は動かせずハラハラする
ばかりである。戦車は何台も続いてくる。先頭の戦車が目の前にくる、
私は伏せて鉄兜を手で押さえて震えているばかりで何も出来なかった。
 
遂に戦車は私の頭の上を通過していく、キャタピラーの軋む音がする、
その時私は振り向いて戦車の通過するのを見た。
何だか私は地下から眺めている様だった。ガラス張の地面の下から
何台かの戦車を見送った、そして汗びっしょりで跳ね起きていた。
 
食糧難で畑を耕しているとき誰かが来て、お前はなぜテニアンの洞窟に
いないのかと怒鳴られた途端にテニアンの洞窟の世界が広がり
びっくりし飛び起きた。
 
不思議なことに毎回同じ様なパターンの夢を繰り返し繰り返し見ていた。
終いには次は戦車が頭の上を通過するのだと、夢のその先を想像しながら、
同じ悪夢を見続けては、うなされて起きる日が続いた。
 
今考えるとその夢は、亡き戦友が言葉を変えて
語り掛けていたのかもしれない。
 
戦車に轢かれる夢は、地下の亡き友と同じ情景を
見ていたのかもしれない。 

テニアン島への思慕

 子供の成長や会社の仕事に追われ、復員後約10年で戦塵の悪夢は

殆ど見なくなった。食うために少しでも条件の良い所を探して職を

転々としてきたが、昭和29年ようやく出征前に勤めていた三菱の

長崎造船所に再度就職することができた。

 

これでやっと職は安定し、勤めている限り食うに困ることもなくなった。

三菱に再就職してからは、新しい仕事に慣れるのが精一杯であった。

 それも頑張れば直ぐにおぼえられた。出張も多くなり仕事にも慣れて

生活も安定してきた。

 

暫くして戦塵の悪夢にも襲われることがなくなった。

そして、いつしかテニアンの事は脳裏から離れていった。

 
昭和40年 私が45才の頃から、英霊に引かれるのか、
今までの記録を忘れない内に少しずつ広告の裏を利用して書き始めた。
 書き始めるとあれもこれも書きたくなった。
書き進めるうちにテニアンの思いが深まり、色々な事が思い出される。
いつしかその思い出が脳裏から離れることのない大きな強いものに
なっていった。
 
昭和44年 サイパン・テニアンの戦友会(彩友会)が、熊本県の
玉名温泉で開かれたので初めて参加した。
サイパン島で別れて以来、20数年振りに懐かしい人々に再会する事が
できた。最後まで行動を共にした宮崎の稲尾君は故郷で農家の跡
継いでいる。
また私たちと同じ龍部隊で、サイパンの収容所のナンバーワン
(収容者の代表者)を務めていた長戸兵曹が彩友会でも世話役の
会長であり非常に懐かしい会合であった。
 
年を重ねて彩友会に出席する度に新しく顔を出すものがおり、
マルポの食糧探しに行き敵の待ち伏せで私が撃たれたとき、一緒に居た
緒方兵長が玉名の温泉につかりながら、私の背中の傷を見て、
間違いなく金谷君だ元気だったかと言ってくれた。
 
夜の更けるまで昔話が続いた。同年兵で行動を共にした中玉利君は
東京に居る事もわかった。
 
73

◆ 慰霊旅行

慰霊旅行

昭和48年春 長崎の若者達がグアム、サイパンに慰霊に行くと言う

新聞記事に目がとまった。『長崎ユースクラブ』で 年末年始の休みを

利用して南洋の気分を味わいながら激戦の島グアム、サイパンの戦没者の

慰霊を行いたいとの事であった。

 

早速電話で聞いた。話を聞くうちにテニアンの事が頭の中を渦巻き、

 今生の(こんじょう )見納めに1回だけでも行ってみたいと思った。

 若い人々で主として女性であると言う。私の履歴を話し旅行の行程、

行き先等をきいた。

 

向こうからは戦争の話を是非聞かせて欲しいとの要望もあり、

それに応じて会合に参加するうちにたまらなくなり、意を決して

参加することにしたのであった。

 
『長崎ユースクラブ』の旅行は昭和481231日長崎出発。
元日の朝、羽田よりグアム着、フジタタモンビーチホテルに1泊。
 2日早朝グアム発サイパン着、島内観光ススペのロイヤルタガホテルに1泊。
 3日はサイパン島内観光後グアム島へ帰り1泊。
 4日はレンターカーにて島内1周、夜はグアム大学の学生と
懇親パーティーを行い、5日午後の便で羽田着1泊、6日朝の飛行機
長崎着解散の予定であった。
 
構成は男4、女11で殆どが未婚の若者たちだった。
テニアン行きは予定されてはいなかったが、機上から一目でも良いから
見たいと思い、意を決して参加したのだった。
 
3日グアム島からサイパン島に行く。
グアムの空港で途中機上から一目でも良いからテニアン島を見たいと思い、
テニアン島はどちら側に見えるか聞いたら、現地人が右側だと言って
身振りで教えてくれた。
 
我々の仲間も金谷さんを右の窓辺にと席を譲ってくれた。
折角の皆さんの行為だったが、朝早過ぎたので、朝ぼらけの中、
黒い島影を見た程度で終ったが、私は戦時中の状況を想像し、
幻想の世界を間近に見る思いだった。
 
サイパンに着いてしばらくして夜が明け始めた。
一応ロイヤルタガホテルに落ち着き、その後マイクロバスで
島内観光に出る。
タッポーチョ山が目を引く。ガイドはホアキンLGサブラン、
運転手はウエニオ・テリノオと言う。
 
サイパン病院跡、サイパン公園、機関車、松江春次の銅像につづき、
平和祈念地蔵があった。
裏側には太平洋戦没者慰霊と書いてある。
皆で線香をあげ内地の餅、タバコを捧げて若い人達が頭を下げ、
しばし戦没者の冥福を祈ってくれた。
バンザイ岬、ここは戦いで追い詰められた民間人が、遥か北の日本を
伏し拝み断崖から身を投じた悲惨な場所である。
断崖の下は太平洋の荒波が渦巻いていた。
大きなコンクリートの二柱の碑があった。銘板には
『アジア太平洋の新時代の創造と繁栄を祈願し戦没者の霊に捧げる
昭和四十五年三月』とあった。
断崖の片隅に木の朽ちかけた標柱がある。近寄って見るとコンクリートの
台座に銘板があった。
長崎の慰霊団が来ていたのである。
その銘板には『慰霊』長崎県サイパン戦跡巡拝団
山口イシ   有田政治   梁瀬健吾  浦喜之衛見 浦田熊次郎 
久保平桃市  大坪 茂   村田岩夫  山田完修  坂本 強 
浜田イクノ  香椎恵美子  吾郷征四郎  
昭和四十七年六月四日
74 
 

すでに先人たちは島にきて活躍しており、私どもは出遅れの感が

ないでもなかった。

 
その他日本軍最後の司令部跡は、洞窟の前に、日本軍の大砲戦車等が
並べられ公園になっている。
その上がスーサイドクリフ(自殺の断崖)と言われ、追い詰められた
民間人が崖から飛び降りて自殺した場所である。
そこには平和慰霊像があり、塔の上に観音像と十字架があり
和洋合同の慰霊碑である。
 
観光を終え、午後はビーチに出て海水浴をする。
若者たちは始めての南洋の浜辺でおおはしやぎである。
サイパンの西側の海岸の殆どが珊瑚礁に覆われていて、波静かで砂浜が続き、ビーチ遊びには最適である。
 
頭を巡らせば南西方面にテニアン島が水平線に浮かんでいる。
昔不沈空母と言われただけあって平たい台地で、タッポーチョ山のような
高い山はない。
 
夕暮れ近くになり、ガイドが来て『テニアン行き』が決まったと
言ってきた。『ボートを手配できた、テニアンの案内は運転手の
テノリオさんの叔父さんがしてくれる』との事だった。
 
とうとう私の念願が叶った、テニアン島に行ける事になったのだ。
 今朝、明けやらぬ空のもと、ようやく眠りから覚めようとするテニアン島を
眺めただけで、諦めがたい思いをしていたので最高に嬉しかった。
 
中村、向井、山崎、小川、金谷の5人がテニアン行きに決まった。
 
4日朝915分頃、ススペの桟橋からFRPのボートで出発。
珊瑚礁を出ると太平洋のただ中である。ボートはスピートを上げて
テニアンに向かう。急に波が大きくなる。サイパン島とテニアン島の
間の距離は僅か5キロメートルしかないが、テニアンの港は島の南に
あるので遠い。
 
急流のサイパン水道を抜けるとすぐにテニアン島である。
先ず1番に見えるのが飛行場があったハゴイである、敵が上陸してきた
砂浜が見える、その南にラソ高地が見える。
ラソ高地は614日頃から暫く退避していたジャングルである。
 
当時あれだけの飛行機が飛び、物凄い軍事施設があったのだが
今は全く何も無い。
しばらく新湊高地の断崖が続く、テニアン島には珊瑚礁が少なく
従って切り立った断崖が多く砂浜が少ない。
 
ペペニグルを過ぎて断崖が低くなり島の南部のカロリナス高地が
見え出してきた。遠目ではあるが、1年間過ごしたジャングルの
目印の3つの白い岩が見えている。
 
昭和209月サイパンの収容所に送られる時、舟艇から見た時と
同じ景色である。洞窟の周辺のお骨が脳裏を掠める。
 
必ず迎えにくるぞと心に誓いながら別れてから29年目であり
私も54才になっていた。
亡き戦友との約束をやっと果たすことができる。
私はテニアン島に行けるのだ。テニアンの港は遠い。
私のはやる心を乗せてボートはひたはしりに走る。
 
やがてソンソンの町が見えてきた。教会の鐘楼の尖塔らしきものが
 際立って見える他はトタン屋根の家が点々と見える程度である。
ボートは岸に着き上陸したが人1人いない。
暫くしてボートの音を聞き付けたのか人が来たのでテノリオさんの
叔父さんの家に案内してもらった。
75

久し振りのテニアン島

先ず第一に私が1年間過ごしたカロリナスの洞窟に行きたいと思ったが

ジャングルに阻まれ簡単には行けそうにはなかったので、途中の水道の

配水タンクまで行くことにした。

 

当時、飛行機が飛ぶのを見ながら砂糖黍をかじった所である。

今は全く人家や構築物は見えない、本当の自然に返っている。

米軍があれだけのカマボコ型兵舎や軍事施設を何処へ持って行ったのか

何も残っていない、思いも掛けない変わり様である。

 

カーヒー、チューロ、ラソの高地は青々とした緑の丘になっていた。

タンクから下り幹線道路を北上する。右手にトタン板の小屋が見えた、

メリカ人の牧場主の家でテニアン島の大半を借り牧場にして

牛を5頭程飼っているという。

 

送信所の建物が昔の弾痕を残して建っていた。屠殺場になっているという。

左手にコンクリート造りの鳥居が見えた第三農場の鳥居だとのことだった。

前方にこんもりとした林がある。近付いて見ると道路のロータリーの中に

木製の鳥居が見えた。

 

車を降りタガンタガンの林を分けて中に入ると、鳥居の下には立木と草に

覆われて小さな碑があった。皆を呼び草を払らい清掃して、線香を上げ

お参する。

 

 46年学生慰霊団が建立したものであった。

 
『祖国の未来に殉じた英霊を慰め戦争を知らない私達の未来を
 開く心の警鐘に』
 
令部の建物や私達が利用したトーチカを見て、戦争を終結に導いた
原子爆弾の搭載地に行った。飛行場の北側に東西に百メートルほど離れて
二つの搭載地がある。
 
地下の3×5メートルのコンクリート造りで、その上に飛行機がまたがり、
原子爆弾をジャッキアップして飛行機に積み込む施設である。
 
今は土で埋められ椰子の木とプルメリアの木が植えてあった。
現地人の話では、原子爆弾の影響(現地人は毒という)で
椰子の実は変形しているとのことだった。
アメリカが作った記念碑があったのでその文を記載する。

第一原子爆弾搭載地

 
『この搭載地からかつて使用された最初の原子爆弾は
Bー29に搭載され、194586日、日本の広島に投下された。
米空軍の第二〇ー五〇九混成部隊陸軍大佐パウル・W・ティベッツに
よってこの爆撃機は操縦された。
 
原子爆弾は19458月5日の昼遅く搭載され、次の朝245分その機は
離陸した。米海軍のウイリアム・パーソン大佐が責任者として搭乗した』
 
第二原子爆弾搭載地  
 
『この搭載地からかつて使用された2番目の原子爆弾が
Bー29に搭載され、194589日、日本の長崎に投下された。
爆撃機は米空軍の第二〇ー五〇九混成部隊の陸軍大佐チャールス・W・
メイヤーによって操縦された。
 
810300分、日本の天皇は内閣の最終決定をまたずに
太平洋戦争を終結した』
 
 
76 

 カーヒーに飛行場があると言うので寄ってみた。

小型機でサイパンと結ばれグアムからの飛行機も立ち寄るとのことであり、

 空港は滑走路とトタン葺きの小屋があるだけだった。

 

島民が1人居て西瓜をサイパンに出荷するのだと言っていた。

その島民の話では、厚生省や長野県の山岳隊の人達がザイルを使って

洞窟の遺骨を収集しているとのことである。

 

私どもは今回は何もすることは出来ないが、次回からは遺骨の収集を

するぞと心に決めてテニアン島と別れた。

ボートの中からカロリナスの洞窟を望み29年前と同じ様に

島に残された英霊に対してあつい思いを抱きながら何時までも

何時までも島影を見送った。

 
かくしてテニアン島の初めての訪問は大きな思い出を残して終わった。
サイパンから飛行機でグアムに帰り、翌日はレンタカーでグアム島1周の
観光をなし、夜はグアム大学の学生らとのパーティーで夜遅く迄で騒ぎ、
翌日5日の飛行機で羽田に着き帰国した。
初めての海外旅行で復員後初めてのテニアン、サイパンの慰霊旅行を
終わった。若者達も初めての海外旅行であり、常夏の南洋で汗をかき
海水浴をし、戦跡を訪れては涙を流して慰霊を行い尊い経験をした
旅であった。

マリアナ会慰霊旅行

505月 岐阜県マリアナ会の現地慰霊並びに収骨旅行に参加した。

彩友会からは7名で私は妻と息子の3人で参加した。

イパン班とテニアン班に別れ、合計100名程の大所帯であった。

 
テニアンではカロリナス北斜面の住吉神社付近の小さな洞窟の中の
お骨を私が発見し、息子と妻の3人で掘り出した。
頭骨は壊れていたが完全な一体だった。身分判明の手掛かりは何もなく
軍に関するものもなかったので民間人ではなかったかと思われる。
 
住吉神社に全員集合し懇ろに弔った。戦いが終り初めて上げてもらった
線香の煙とお灯明がジャングルを抜ける風に揺れていた。
 
住吉神社の東側の窪地でお骨の散乱したのを発見した。
全員集合してお骨を踏まないよう注意して、線香とローソクを灯し
ばし冥福を祈り、端の方から少しずつ落ち葉や土を除いた。
 
頭骨は前半分がなかった。頚骨に続いて鎖骨と肋骨があり、
上腕骨に続き手の骨があった。驚いたことに、手の骨の側に黒く
堅いものがある、長さは30センチ程の鉄で横向きの槓桿らしき物があつた。
正(まさ)しく小銃である。彼は日露戦争当時の
『木口小平は死んでも喇叭を放しませんでした』と言われていたが、
になっても鉄砲を離していなかったのである。
 
掘り進むと、大腿骨下腿骨に続いて陸軍の靴があった。
靴の中にはかがとから指先までの骨が入っており皆の涙を誘った。
胸のあたりからは陸軍のシャツの陶器製のボタンが出た。
胸のポケットに大切にしまっていたものか鏡に合わせた写真が出てきた。
これで身元が分かると小躍りして喜んだが、良く見るとそれは女優の
田中絹代のブロマイドでがっかりした。
 
認識票はないかと胸元を再度掘り返してみたが発見できなかった。
彼は紛れもなく陸軍の兵隊で7月30日か31日頃戦死したのではないかと
思われた。また場所が窪んだ平地だったので流れ出さずにその儘の姿で
残っていたものだと思われた。
 
上陸地点の北側の海岸に砂で覆われた陣地を見付けた。
コンクリートで出来ていて、中には遺骨があった。
半分砂で埋まっているので手分けして掘る。薬莢の付いた砲弾が出て来た
 35ミリ砲弾である。しかし砲身がない、不思議な事に頭骨のかけらも
かった。後で聞いた話では、戦時中に米軍が、支那の蒋介石軍に
占領地の日本軍の銃器の残骸を鉄屑として払い下げたとき、テニアン、
サイパンにも来て持ち去ったのだという。
そのとき米兵が悪戯をして頭骨を持ち去ったのではないかと思われた。
 
 
77 

戦争中カロリナス斜面の洞窟で頑張っていたとき、随分多くの器材が

散乱していたが、ある時急にそれらが無くなった事を覚えている。

それも蒋介石軍が持ち帰った為だと考えられる。

 
今回の旅行は慰霊と遺骨の収集だけではなかった。初めて見る場所にも
行くことが出来た。アシーガの海岸は砂浜で米軍上陸の可能性ありと
聞いていた場所だったが、陸風が強くて上陸には不向きで米軍は
上陸地点には選ばなかったとのことだった。
 
には珊瑚礁のリーフがありその内海は浅く、渚は砂でサイパンの
タッポーチョ山がよく見える雄大な景色であり、ビーチ遊びに
良い所であった。
アメリカ軍はロングビーチと名づけ現在でもそう呼ばれている。
 
敵の上陸地点も初めて見た。611日の空襲第1日目の日に私が
退避した場所である。高さ12メートルの岩場で波で浸蝕さ
沢山な割れ目がありその割れ目に退避したのだった。
 
そこを砲爆撃で打ち砕き平たい岩盤にして上陸してきたのであった。
ゴイの飛行場は拡張整備され2,500メートルの滑走路が4
新設されていた。
カーヒーには新しく2,500メートルの滑走路21,800メートルの
滑走路1本が建設されていた。
当時私共が砂糖きびをかじりながら飛行機の離陸数を数えたのは
ここから飛び立つ飛行機であった。
南側の短い滑走路は現在の空港の滑走路として使用されている。
旧日本軍の第2飛行場の1,200メートルの滑走路は、そのまま放置され
今はジャングルになっている。
 
マルポの井戸は農業用水として使用され、飲料用は300メートル南に
新しく深井戸を掘って使用していた。
テニアン島の住民は700人程度の少数で大部分人達はソンソンの町で
暮らしている。殆ど全部がトタン葺きの平屋で2階建の家は無かった。
 
上水道は完備し、トイレは吸い込み式(地中に吸い込ませる)では
あるが、一応文化的な生活をしていた。
 
今回の旅行では島中をつぶさに見て回り、地理を学び戦跡も数多く見た。
友人も増えテニアンの現地人にも友人ができた事であった。
そして、昨年買った8ミリ撮影機で撮影し、始めて映画
『テニアン島の遺骨収集』をつくった。
見よう見まねでタイトルを書きBGMとナレーションを入れ完成し、
我ながらに良く出来たと自負していた。得意になって友人の内野さんに
見せたら『絵の撮り方がなっとらん、セリフの歯切れが悪い、
良い題材を持ちながら全然それが生きていない』と散々な批評を頂き
 がっかりした。
 
しかし、彼がその後、非常に懇切に指導してくれたので、またとない
良い勉強となった。友人だった内野さんは内野先生になり後々までも
指導して頂いている。
 
昭和518月 34日のサイパン島のツアーに息子雅夫と
娘紀子の三人で参加し、方々に頼み込んでテニアン島に渡り8ミリ映画の
現地ロケを行った。内野先生に懇切に指導して戴いていたので、
それに従いロケーションを行った。
 
帰宅後指導を受けながら『姿なき墓標』を完成した。
そして、それは立派な私の戦いの記録となった。
 
78 
 

彩友会慰霊旅行開始

昭和52430日から45日で彩友会慰霊旅行を企画し

岐阜、広島、九州から35名が参加してくれた。

サイパン班とテニアン班に別れ、私はテニアンに行った。

 
長崎の福済寺の住職の三浦和尚に同行して戴いたので、ソンソンの
町外れの慰霊碑前で慰霊祭を行う。ハゴイの飛行場の北の地下の
 16ミリ機銃陣地があり遺骨2体を収容した。
予備品と思われる銃身が2本があり、和尚が持て帰りたいと言うので、
から引き摺りだし車まで担ぐ。
 1本は2人で担ぎ、あとの1本はガイドのマヌエル・デラクルスさんが
 1人で担いで来た。体力の差があった。
 
次にラソの野戦病院跡に行ってみた。
入り口は巾2メートル程の通路があり中は8畳程度の広さがあった。
奥には上に通じる穴があった。
奥は暗らかったが薬瓶や器材が散乱していた。天井の岩が崩れ落ちたのか
一部埋まった所もあった。洞窟の中は暗いので入り口の部分を掘った。
遺骨があった。全部で九体分である。
 
和尚がサイズの小さい靴を探してきた。子供物かと思ったが女性の物で、
看護婦の物と思われて皆の涙を誘った。
次に私が1年間潜んでいたカロリナスの洞窟に行き、付近の岩を
祭壇に仕立て付近で斃れていた英霊を和尚にねんごろに供養した頂いた。
 
帰途ガイドが椰子の実を取ってくれた。
その水は乾いた喉に心地よくうまかった。
夜は宿舎で全員集合し、お骨を祭り和尚にお経を上げてもらいお参りした。
 
サイパン島に帰りサイパン班と合流し、昭和49325日国の手で
完成した中部太平洋戦没者慰霊碑前にて合同慰霊祭を行う。
 
大場大尉組の土屋伍長の友人、現地の警察所長アントニオ・ベナベンテ氏が
来て、若者の手で日本の国旗とマリアナの旗を掲揚してくれた。
その若者は国旗を結わえたロープの端を口にくわえ、7、8メートルの
ポールをいともたやすく登りロープを滑車に通し、また口にくわえ、
 するすると降りてきた。身の軽さに全員驚いた。
 
今回の旅行は、行きは大阪空港発グアム経由サイパンへ。
帰りはグアム1泊、54日グアム発沖縄空港着、ここで福岡空港行きと、
大阪空港行きとに分かれ、全員35名無事帰国した。
当時はサイパン直行便が無かったので、グアム経由となり、便の都合いは、
グアムで一泊せねばならないこともあった。
 
昭和53年は、328日から67日の予定で募集したが
参加者がなく三浦和尚と私と、息子の雅夫の3人で旅行した。
日程は長く3人の小人数で相談しながら自由な旅が出来た。
サイパン島では軍艦島と呼ばれるマニヤガハ島に行き史跡を見た。
15センチ砲が2門あった。1つには弾が詰まっており、砲口から手を入れ
弾頭を触れられた。いずれも薬室の上部に直径78センチの外側に
吹き出した穴が開いていた。
過剰な火薬を詰め砲を破壊したものと思われた。
弾の詰まった砲もオーバーサイズの弾を入れ使用不可能にした為と
思われた。和尚が銘板を見て明治35年製造の砲がどれだけ活躍したか
疑問であると言う。当時来攻した巡洋艦1隻には15センチから
20センチの砲が8門から10門あり、水平線を埋め尽くした敵の艦隊に対し、
軍艦島の2門の砲は物の数でも無かったのではなかろうか。
付近にはお骨が少し見つかった。
ボートで帰る途中、台湾丸の沈没現場に行く。住民の引揚げ船で
出港間際に敵の爆撃を受け沈没したと言う。
内地から持参した我が家の水を捧げ犠牲者の冥福を祈る。
ススペの海には敵の戦車の残骸が波間で砲塔を洗われていた。
付近では熱帯魚が戯れ平和であった。
79

 

昭和54727日から45日の彩友会員のみの慰霊旅行団を組織し
 サイパン・テニアンの慰霊旅行を行う。      参加者 16
 
昭和55930日から34日の彩友会の慰霊旅行。参加者  8
昭和59710日から56日    〃   〃   〃   4
昭和6072日から56日    〃   〃   〃  25
 
平成5517日から45日 遺族田尾さん兄妹慰霊旅行   4
 
この様に昭和4812月31日出発の長崎ユースクラブの旅行団の
参加から始まり昭和50年は岐阜のマリアナ会に参加させてもらっていた。
 
翌年の昭和51年は息子娘三人でツアーに参加、ツアーの行程外で
あったがテニアンに渡り私の戦跡ロケーションを行った。
 
昭和52年は私が人員を集め予定を組み旅行社に手配を依頼し
自分たちの旅行ができた。この時までは添乗員付きで行っていたが、
その後の旅行は私が添乗員の代理をして費用節減を計った。
 
毎度これが最後と思いながら出発していたが、帰りは何時も来年もまた
行きたいと思うようになった。この様にテニアンもサイパンも私には
思い出の深い忘れることの出来ない島になってしまった。
 
80 

◆ 遺骨収集その他

昭和59年遺骨収集

昭和49年テニアン島に行ったとき、現知人に、国の手による

遺骨収集が行われている事を知り、昭和50年岐阜のマリアナ会の旅行に

参加した折り、有力者に遺骨収集参加を申し出ておいた。

 

戦友会長の名古屋の桑山さんを知り遺骨収集参加を頼んだ。

の後も伝(つて)を求めては各所に遺骨収集に参加させてもらう様

求めていた。

 
それから数年たち、昭和5812月、名古屋のマリアナ戦友会の
桑山徳一会長より突然、電話があり遺骨収集賛否の問い合わせだった。
 12もなく参加をお願いしその後は毎年参加させてもらった。
私が初の慰霊旅行を始めてから実に十年たっていた。
 そして渡航回数も10回目になっていた。
 
私は、マリアナ戦友会の前期の班になった。
昭和59216日から29日までの14日間である。期間も長く、
足腰を鍛える必要があるので、出来るだけ山登りに努めることにした。
出発まで一月半である。
正月も歩くことに専念し出来るだけ山を歩きまわった。
しかし今年は特に寒く雪が積んでいたが、晴れ間を見ては、
標高約300メートルの金比羅山に週23回の割りで登った。
必要な品物も買い集め準備万端を整えて出発の日を待った。
216日 130分 厚生省にて結団式が行われた。
正式名称は『マリアナ・パラオ諸島戦没者遺骨収集政府派遣団』である。
派遣団体名および人員は次ぎの通り
 団体名 全期 前期 後期

厚生省

2名 2名 3名 7名
日本遺族会 1名 8名 8名

17名

マリアナ戦友会 3名 7名 7名 17名

日本青年遺骨集集団

10名    

10名

南興会 1名 2名 2名 5名
栃木県パラオ会     4名 4名
群馬県パラオ会     3名 3名
静岡マリアナ会遺族青年部(8日~14日まで)     4名 4名

 延べ人員 67名という大所帯であった。

 
 
各班1名の先発員は既に13日出発しており、結団式に出席したのは、
全期班12名、前期班19名で、パラオ班7名静岡青年班四名を除く
 31名であった。
 
私はマリアナ戦友会前期7名の1人として参加した。
遺骨収集に対する注意や現地状況の説明があり、遺族会と南興会の
役員の労い(ねぎら)の言葉を聞き、団装備の荷物をトラックに積み、
千鳥ヶ淵戦没者墓苑と靖国神社にお参りして成田空港に向かう。
途中雪が積もっていた。
 
81 

JAL947便 2040分発、055分サイパン着である。

3時間少々の旅であった。着後は入国手続き、個人荷物と団装備品の

通関を済ませ、先発の桑山班長の出迎えを受け挨拶をする。

 

その日はハファダイホテルに一泊疲れを癒す。班長の桑山さんと

岐阜の青木さんは先発で民宿でススペのニコス・デラクルス宅の一室を

借り自炊をしている。

我々はホテルに宿泊し、食事は桑山さんらに依頼し食べさせて貰う事に

なっていた。 

 
17日は午前中休養 1400分 収集器材、医薬品、ヘルメットの配分
1600分 中部太平洋戦没者の碑 の清掃後報告式、先発者との面接、
自己紹介、その後フリー。
 
明日から本格的な収骨作業に入る。
 
18日 朝ホテルの駐車場に集合、団長の注意事項を聞き各班ごとに
出発する。
戦友班はガロライを通りタコ山に行く。
 11頃になり、タコ林の岩陰に防毒面の薬室を発見した。
良く見ると白い歯が見える、上顎である。頭蓋骨は割れて散乱し
青く苔むしている。
積もっている落ち葉を取り除いたら完全な一体があらわれた。
 
防毒面を初めとし遺品も出てきた。38式小銃弾、鉄カブト、銃口蓋、
防錆油などがあった。
彼の武勲を称えながら収骨する、長い間放置して申し訳なかったが、
ほぼ完全に収集できた。
 
一方祭壇も設けられ線香とお灯明があげられ全員でお参りし冥福を祈る。
昼食後タコ山でまた一体発見収容した。収骨済みの赤いテープのマークが
あったが少し外れていたので見落したのか、表土が流れお骨が現れたのか、
何回歩いても、お骨はふと現れるものである。
今日は2体収容して帰途に着く。
 
19日 厚生省の木村さんが同行、ガロライの山を散々歩いたが遺骨なし。
 
20日 都合によりハファダイホテルを引き払い、班長の桑山さんたちが
いるススペの民宿のニコラス・デラクルス宅に移ることになり、
朝食時に移動した。
 
ガロライを方々歩いたが一体も発見できず空しく帰隊する途中、
アイバン・プロポストと言う白人が我々の車を止め
『日本の遺骨収集団ではないか、自分の畑にお骨がある』と言う。
これは占めたと彼に同行する。
 
タッポーチョ山の登山道から右折れして下ったチャランガライデーであった。彼の畑の直ぐ側に石を並べて囲い鉄兜の中に頭蓋骨があり上腕骨水筒砲弾の
破片などが見えていた。
埋葬したかっこうの場所だった。急いで収骨する。ごぼう剣が出てきた、
水筒の形状から陸軍の兵士に間違いない。
 認識票はと思い再度掘ってみたが出て来なかった。
 
5メートル程崖下の岩陰に下肢四本と上腕骨が白ろじろと、生々しく
横たわっていた。時間が遅くなったので表面のお骨のみを拾い下山する。
 
21日 チャランガライデー2日目、作日表面のみ収集した場所の精査収集を行いその周辺より3体収容。
 
22日 チャランガライデー3日目、作日の続きの場所で五体収容。
 
23日 チャランガライデー4日目、ここ23日スコールが多い、
ジャングルの路地に青苔の生えた「草むす屍」があった。
 
付近に迫撃砲の部品と台座があった。彼は陸軍の兵士に違いない。
一体はタコの木の足に挟まれた頭蓋骨と腰骨が見えている。
タコの足が邪魔で作業が困難であった。
どういう訳かタコの木の下にはお骨が多かった。
82 

 

25
チャランガライデー5日目
アイバン・プロポスト氏の畑に
車を止め、北側の斜面に入る。
 
上方のガケに2体あり。
 1はお骨が小さく子供と
思われた。
 
もう1体は大人だが
母親かどうか性別までは
わからなかった
 
今度の戦いは女子供まで
巻き込んだ戦いだった。
 
 
当時マリアナ諸島は日本の委任統治地領で、南洋興発会社があり
日本人が多く、住民15,000人程が戦争にき込まれていった。
 
西側の洞窟の棚には大人の革靴があった。
引き出したら靴はばらばらになったが、中には眼鏡、靴べら、
認識票らしき物が入れてあった。
 
それは南洋興発会社の入門票であった。彼は会社の社員だったのか。
お骨は収骨されたのか無かった。
帰りにアイバン・プロポスト氏がいたので、今日までに16
収容した事を報告した。
26日 チャランガライデー6日目
付近の岩場のジャングルで斜面を流れ下ったと思われるお骨二体を収容。

27日 タッポーチョ山西側ジャングルを散々歩き回ったが

お骨に出会わなかった。バラ線を張った山で昼食休憩し出発して、

 5メートル歩いてお骨に出会った。

 

昼食をとりながら見ていた所だった。反対 に歩いていたら見付けずに

終わるところだった。仏が歩かせたのか、彼が呼んだのか、

発見出来て良かった。

 

前面が石積の陣地の中にお骨があった。頭蓋骨から足まであった。

陸軍の兵士と思われたが、遺品にホウロウ引きのやかんの

注ぎ口だけしか無く身元が確認できなかった。

 
28日 私共前期の隊員にとって今日は収骨作業最後の日となり、
私たち隊員七名は午前中は全員と同一行動をし、午後は最後まで残る
隊員3名を残して下山し、帰国準備をすることになった。
 
サイパン島東北部のカラベラに向かい、ぼうず山に到着した。
地獄谷の東側で激戦地跡であり、前回も多数収容したと所だと言う。
暫く歩いて『お骨発見』の声があがった、頭蓋骨と腕の骨があり
収骨しお祀りをする。
 
後を最後まで作業する全期の隊員に託して我々は下山した。
初めて遺骨収集に参加した我々には、長くつらい期間であったが、
無事勤め終えることができた。
 
ススペの民宿のニコラス・デラクルスさんの家に暮らし、
 10日余り山を駆けずり回り、スコールに濡れて滑りどろどろになっ
作業服と靴の洗濯をする。
 
毎日弁当、遺骨収集に必要なカメラ、八ミリカメラ、線香ローソク
その他一切を入れて持ち歩いたリュックサックも洗濯した。
 
今回の収骨数はサイパン島176柱、テニアン島22柱、合計198柱であった。
 
29日 520分民宿発、ホテルに集合し600分ホテル発空港に向かう。
早朝は冬物のジャンバーを着ても暑くない。
720分サイパン発、朝焼けのサイパンに別れを告げた。
 
31日 935分成田着、入国手続き後ロビーにて解散。
成田空港の気温1℃であったが、我々には湯上がりの気分で心地好い。
東京駅1700分発長崎行きに乗車、翌日福岡の二日市付近は雪が
積もっていた。
 
始めての国の戦没者遺骨収集に参加し、昼過ぎ長崎駅に到着帰崎した。
83 

パート7へ続く