金谷氏の『この写真集を多くの方に見て頂き次世代の参考にして欲しい』とのご意向に

少しでも役立ちたいと思いパウパウホームページに掲載させて頂きました。

ここに紹介させて頂いた写真は全て【金谷 安夫氏】によるものです。

これらたくさんの骨は太平洋戦争の末期に犠牲になられた兵士や民間の方々です。

まだたくさんのお骨が祖国に帰れず当地の何処かで眠っています。

これらの写真は金谷氏からのメッセージです。 彼は最後にこう綴っています。

 

 戦争をしたらどうなるかを良く考え、今後は 絶対に戦争はしないと誓って欲しい。

 先の太平洋戦争末期のマリアナ諸島のサイパン島とテニアン島は慟哭の島であった。

慟哭とは辞書によれば『ひどく悲しんで大声でなく』 『声を立てて泣き叫ぶ事』と書いてある。

当時のサイパン・テニアンの島は将に慟哭の島であった。

 

 サイパン・テニアンの島は米軍の攻撃を受け日本軍は勇戦敢闘したが、闘魂と大和魂の

スローガンだけでは、合理性と物量を重んじる米軍には叶わず守備隊は玉砕してしまった。

兵士達は国を守ると言う大儀のもとに『我身ヲ以テ太平洋ノ防波堤タラン』 『人命は鴻毛よりも軽るし』として

若い命を散らせて行った。

 

                                  

これは当時元761海軍航空隊の兵員として

テニアン島で任務に就き、祖国日本の為に戦った   

金谷 安夫氏の手記 『慟哭の島 その事実』です。

 当時私は元761海軍航空隊の一兵員としてテニアン島で任務についていた。

そして米軍の攻撃を受け我が守備隊は玉砕し、其の中にあって神の助けか仏の導きで

傷痍の身ながらも命の糸だけは保ち、ジャングルに眠る友に『何時か必ず迎えに来るぞ』と誓って

復員した。

 

 それから30年、昭和49年の正月休みを利用して島を訪れる機会を得た。島の土を踏んだ時

懐かしさと亡き戦友の事で涙が溢れた。そして、国の遺骨収集団が数回来島している事を知った。

カロリナスのジャングルにも行きたがったが適わず手を合わせただけで帰った。

その後は毎年渡島しお骨も収集できるようになった。

 私はジャングルで銃を握った遺体が朽ちてお骨になる過程をつぶさに見て来ただけに、

お骨に出会うと堪らない思いにかられた。

 

 戦没者の遺骨収集作業をしていると、お骨や遺品の状態から当時の出来事がまざまざと

回想され死の間際の様子が忍ばれて慟哭に耐えない思いであった。鉄兜をかぶり小銃を

握り締めたお骨に出会った時『木口小兵は死んでもラッパを離しませんでした』と、小学校で

習った事が思い出された。ある時は母親と子供それに乳飲み子3人のお骨に出会った。

母親は銃で頭を撃ち抜かれており、残された子供達がどんな気持ちでどうして死んで行ったのか

涙無しでは考えられなかった。 そして総てのお骨が当時の事を私に語りかけてくれる。

そこは今も慟哭のジャングルのままである。

 

 私は昭和59年から平成6年までの8回にわたり厚生省の戦没者遺骨収集に参加して、

作業の合間に現場の様子を撮影してきた。 そして最早余命幾許も無い齢となったが、

この貴重な経験と写真をみすみす風化させるに忍ばず、孫子だけにでもと思いこの写真集を

取り纏めた。

                

              昭和19年8月2日               著者  金谷 安夫

       サイパン島とは、、、、、、

     テニアン島とは、、、、、、

テニアン集骨作業

サイパン集骨作業

サイパン 集団埋葬地

 昭和19年7月7日未明 生き残った日本兵は地獄谷に終結し最後の突撃を行い

ガラパンに向かって突撃した。 其の先端はタナパグ村付近まで達した。其の武器や装備は

哀れなものであったが、一人でも多くの敵を倒して玉砕しようとする気迫に燃えていた。

 

 海岸や道路は戦死者の死体で埋められ、夜明けと共にバンザイ突撃は終わりを告げた。

日本軍の死体は一般人を含め4311に達した。

 

 その後、山の中に残った日本兵がアチュガオ海岸で米軍が戦死者の死体を戦車で

轢き殺すのを目撃したと言っていた。 これは将にブルで穴を掘り遺体を埋すめる作業の

目撃談だったのである。 我ら生還者は其の場所を探し出しお骨を収容してあげるのが

大きな念願であった。

 

 後日、アメリカの考古学者がブルで穴を掘る写真を手がかりにして撮影者を探し出して

話を聞き、台形のマッピ山から現在地を推定し、地元の業者に試掘を依頼してこの位置を確定したと言う。

 

 今回、現地政府から日本政府に遺骨収集の妖精があり、急遽実施の運びとなったものである。

 *平成4年の事です。  

納骨室 ・ 焼骨

骨揚

追悼式

遺骨伝達式

拝礼式

金谷氏     ----あとがきーーーー

 あの激しかった戦いは終わった。そして日本の国民は瓦礫の中から立ち上がり祖国を立派に復興して

今では世界屈指の経済大国を作り上げた。 しかしサイパン島のジャングルには、 今なお戦没者数の

半分以上のお骨が放置されているとは何と言う事だろうか。

 

 戦いに斃れた者は国の守り神として一応は靖国神社に祭られてはいるがお骨を拾ってあげるのが

先ではないのか。 また厚生省の遺骨収集も平成7年を最後にしてその後は行われていない。

 戦死者の半数以上がお骨を拾ってもらえずに慟哭し、浮かばれないままである。

 

 当時の南洋群島は日本の委任統治領で、サイパン・テニアンの両島には日本からの

移住者も多く、主として農業に従事して平和に暮らしていた。戦争が始まると軍に協力させられ、

負傷すれば応急の治療は受けられたが戦いが激しくなるにつれてそれも出来なくなり、動けなかった者は

取り残されて一人さびしく死んでいき、その数も次第に多くなっていた。また年寄りや幼児を連れての

ジャングル内の後退も困難を極め、まして負傷して歩けなくなった者は手足纏となり、家族同士で

殺しあうなど、この世では考えられない惨事が起こっていた。 殺すもの殺されるものの気持ちは

平常心では考えられない事である。

 

 中には一家全滅してしまう家族も少なくなかった。生きている者死んでいく者、その何れも心の葛藤は

並々ならぬものがあったと思われる。

 

 民間人は軍隊を頼りにしていた事だろうが、断末魔に喘ぐのを見ても任務の途中では如何とも致し難く

目をつぶって側を通り過ぎるしかなかった。 軍隊は国と国民を守るのが建前だろうがここでは、そうではなく

住民を巻き添えにして自らは『人命は鴻毛より軽し』としてバンザイ突撃をして若い命を散らして行き

全く慟哭に耐えない事態であった。

 

            この写真集を見て、戦争をしたらどうなるかを良く考え、今後は

            【絶対に戦争はしないと誓って欲しい】と願い筆を置きます。

 

              平成19年8月2日    撮影・編集  金谷安夫

 

金谷氏のホームページ

慟哭の島その真実は下記にございます。

 

http://www1.ocn.ne.jp/~y-kanaya/01doukokunoshima.htm