南洋貿易

 

1920年に正式に国連から認められ南洋群島は日本の統治下に

おかれ南洋庁が設置されますが、そのずっと以前から

南洋貿易は行われていたのです。

1894年には南洋貿易日置合資会社(後の南洋貿易株式会社)が

自社船で南洋群島との貿易を行っていました。

その後1908年に南洋貿易株式会社に改組し、

 南洋群島各所に支店を開設していきました。

経済面ではすでに大きな影響力を持っていたということです。

南洋貿易株式会社のHPは↓です。

スーサイドクリフの慰霊碑に書かれている栗林徳一氏の

お名前など見覚えのあるお名前が出てきますよ。

http://www.nbk.co.jp/japanese/enkaku/enkaku.htm

 

大正9年ニッポン大不況

     海の満鉄と呼ばれた南洋興発

 

 

大正9年(1920)日本は株価の大暴落、

第一次世界大戦後の大恐慌が始まり企業倒産が相次ぎ

街に失業者が溢れかえった時代です。

ここ南洋でも同じく、不況のあおりを受けた企業が

次々と撤退していきました。

南洋諸島のあちこちの島では多くの移民の人たち、

特に朝鮮移民の人たちが困難な暮らしに追い込まれていきます。

この事は日本国家の威信に関わる一大事とまで考えられたようです。

 

 

 

南洋興発株式会社

1921年11月、大日本帝国の国策会社として

南洋興発株式会社が設立されます。

この会社の事業主軸は製糖事業だったそうですが

その頃専務取締役だった松江春次氏が南洋群島にて

大活躍をし農業、水産業、酒造業と次々とこの南洋で

事業を拡大して行ったのです。

 

サトウキビ列車

    サイパン産スコッチウイスキーの出荷

松江春次氏は内地から移民団を募り、島を開墾し

サトウキビの栽培を始めます。

サトウキビを工場へ運搬する為の鉄道も建設されました。

 

サイパン神社、シュガーキングパークに展示されている

赤いきしゃぽっぽです。

 

砂糖業からは十分な利益が出たそうです。

1日1,200トンにもおよぶ砂糖を日本へ出荷します。

そして1926年【大正15年】にはお砂糖を作る行程で出来る

糖蜜を使ったウイスキー蒸留所を建設しました。

南洋庁はサイパンからの輸出に便利なよう

タナパグの港湾設備を拡張しました。

南洋開発は松江春次氏を中心に事業を展開し

南洋諸島での製糖業を確かなものにしていったのです。

 

 

 

サイパン神社にあるサトウキビ列車

開拓移民団

1926年【大正15年】

菅野(旧性 三浦)静子氏著の【戦火と死の島に生きる】と言う本からの抜粋ですが

開拓移民団のお話です。

 

菅野氏は南洋開発会社の開拓移民団として御両親と一緒に「近江丸」と言う船に乗っていたそうです。

重油の匂いがする汚い船でそれだけでも吐き気がすると書かれています。

又、嵐にも見舞われあらしがあった後の船室内は40度もの蒸しかえるような暑さだったそうです。

横浜港を出て24日目にようやく珊瑚礁に囲まれた美しい島を見たとあります。

 文中より

*島は朝の太陽をいっぱいにあびて緑一色に輝き、島の周りを取り囲む白い砂浜は

 宝石が輝くようにきらきら光を放っていた。

 

あまりの美しさにただ呆然と景色のとりこにでもなったように見つめていたそうです。

島に着くと、南洋興発会社の社員が船に乗り込んできて開拓者達を甲板に集合させ

「これから、このサイパン島に降りる人の名前を呼びます」と言われ名前を呼ばれた

人たちだけが下船しました。

菅野氏一家は名前を呼ばれず、次の寄港地テニアンで下船したそうです。

 

 開拓団の人たちは希望いっぱいでこの島にやってきたんだろうと言う事が伺われます。

 菅野氏一家が下船したテニアン島はどこを見てもジャングル地帯で家らしいものは

 一軒もない「無人島」だったと記されています。

 

南洋興発はこの移民団の労力無くしては事業発展などありえなかっただろう事、

又、開墾者の皆様のご苦労は想像を越えるものであったである事が伺えます。

 

大正時代最後の年、昭和は目の前と言う頃の出来事です。

 

南洋興発株式会社

南洋興発製糖業は順風満帆のように思われましたが、最初に日本へ輸出した砂糖は

出荷先の横浜港で関東大震災(1923年)に見舞われ倉庫ごと全焼し大損害となり政府からの

補助金無しでは立ち行かない所まで追い込まれもしたそうです。

又、労働者達のストライキなどもあり順風満帆とはいいがたい部分が多々あったようです。

 

しかし、その後の発展では南洋庁の税収を増やし、昭和7年南洋庁は財政独立を獲得しました。

南洋興発は製糖業で得た利益を基に南洋の拓殖事業へと発展していきます。

酒造業、鉱業、水産業、農業、運輸業など業種が拡大され、サイパン、テニアン、ロタでは

総面積の7割を甘蔗畑にするなど独占が目立ってきます。

そして社員総数は関連を含め5万人近くにまで膨れ上がっていました。

北の満鉄、南の南興 又は【海の満鉄】とまで言われた南洋興発は

国家的企業へと成長していきます。

 

*昭和7年と言うと日本国内では5.15事件【海軍青年将校9名による首相官邸襲撃、犬養首相射殺】

 が起こり、その時の首相と襲撃者のやり取りから【話せばわかる、問答無用】と言う言葉が流行。

 他には、大磯心中、白木屋火災等があった年です。

 

*同じ頃満州では関東軍が満州国の建国を宣言しています。