マリアナ初空襲

1944年2月23日アメリカ軍は突如マリアナ諸島を襲撃。

この襲撃に応戦した日本の飛行機はわずか7機(それしか飛行機が無かったからです)

 

篠塚吉太郎氏著の「サイパン最後の記録」から引用します。

 

午前6時、空襲警報が鳴り響くと同時に、もう爆音が聞えてきた。

間もなく、澄みきった朝の大空に、グラマン戦闘機が四機、

四機の美しい編隊で姿を現し始めた。相当な高度だった。

私達は当然、日本機との激しい空中戦が展開される事を期待して、

この空の蘭入者を、むしろ哀れなピエロのように思って眺めていた。

 

ところがこの期待は完全に裏切られたようです。

グラマン機に応戦する日本機は1機も現れず、敵機は悠々と自由に大空を飛びまわり

日本軍の防備施設を次々に破壊して行ったと、、、。

著者篠塚氏はこの時、南興神社の拝殿の下でこれを見ていたそうです。

この初空襲で軍艦島(今のマニャガハ島)にも爆弾が落とされ、島は半分にかけてしまい

そこで荷役中の軍用船も沈没。

アスリート飛行場、南洋興発製糖所、築港の格納庫なども爆撃ですさまじい大火炎を

あげていたそうです。

 

アメリカ丸とサントス丸

1944年2月末、海軍司令部から民間人の家族に対し引揚命令が出ました。

その時の引き上げ船は「アメリカ丸」と「サントス丸」と言う船だったそうです。

3月始めにアメリカ丸がサイパン、テニアンからの引揚者を乗せて内地へ向かって

出港しました。

アメリカ丸は立派な船でこの船に乗ったのは高級官史の家族など、偉い人達の

関係者ばかりだったそうです。

アンリカ丸は出港から3日後に小笠原付近の太平洋上で撃沈されてしまいます。

この時、女学生だった坂倉房江さんと言う方がアメリカ軍の潜水艦に救われ助かっています。

 

サントス丸は貨物船のように汚い船だったそうですが、引揚者をぎっしり詰め込み

南洋水産の桟橋から出港し、こちらの船は無事内地に到着したそうです。

 

昨年2009年にフィッシングツアーのお客様を港まで御案内した事があります。

お客様は老年のご夫人二人だけ、珍しいなと思ったので「釣りがお好きなんですか?」

とお訊ねしたところ「自分達はテニアン産まれのテニアン育ちだから、釣りは子供の頃

よくやったんだ」とおっしゃられ、更にお話をしていくとお二人は昭和19年に

サントス丸に乗って日本へ帰国された方でした。

感動しました、、お会いできたのは奇跡だと思いました。

もう少しお話したかったのですが港に着いてしまったのでそれっきりです。

6月11日米軍機動部隊来襲

1944年6月11日、この日は日曜日だったそうです。

午後12時40分、またあの嫌なサイレンが鳴り出した。

 

(菅野)三浦静子氏の手記からです。

 

今日のは違う!何百機、いや何千機とも思われるほどの大編隊だ。

編隊の次にまた編隊。無限に現れてくる。

打ち上げる高射砲をものともせず悠々と島の周りを回っている。

先頭の編隊が崩れたかとおもうと、それは急降下にうつりまっしぐらに

海軍司令部のあたりに突っ込んでいった。

ダダダーンという爆発音、ガラス窓も建物もビリビリッと振動した。

次の編隊がまた突っ込んでくる、今度は軍事部のあたりだ。

敵機は海軍の施設に攻撃を集中しているらしい。

地上からもうもうと黒煙が上がり始めた。

メラメラと燃え上がる火炎も見え始めた。

 

町中煙におおわれあっちにもこっちにも火の手があがり

太陽もあめ色になってしまった、爆弾の音だけが継続している。

午後4時、急に静かになった。

 

突然どやどやという靴音がして、負傷兵がたくさん抱きかかえられるように

事務所に入ってきた。

その兵隊さんたちの身体は血でびしょびしょに濡れている。

 

6月12日

この日敵機が現れたのは8時ごろであった。

昨日よりも更に大掛かりなものであった。

 

6月13日

この日も判で押したように同じ時刻に大編隊がやってきた。

この日は空襲警報はならなかった。もう鳴らす必要も無かった。

ガラパンの人たちは皆山に避難していて町には民間人は一人も残っていなかった。

 

6月14日

小さな防空壕に34人の人間、それも血と汗と膿みにまみれた人間が身体を

くっつけあってこもっているのだから、壕の中はむんむんして蒸し暑い。

その中には二人の死者もいた。