日本統治時代

サイパンはその昔日本国だった

1914年8月第一次世界大戦勃発

大日本帝国海軍 戦艦【香取】サイパン侵攻

      日本国!サイパン略奪

 

 

1914年8月に第一次世界大戦が勃発します。

大日本帝国海軍の戦艦【香取】が侵攻し10月14日にサイパンを占領。

こうして、ドイツはマリアナ諸島を失ったのです。

 

 

日本海軍はこの南洋群島を拠点として東南アジアへの経済進出や軍事強化を図ります。

 

サイパン【島民学校】設立

1914年、ドイツから南洋群島を略奪した日本海軍は【島民学校】を作りました。

教科書は【南洋群島国語読本】、、、、なんかものものしい!軍隊らしい命名ですね。

教師は日本海軍の軍人さんだったそうなので兵隊さんみたいな学校だったんでしょうかね。

1914年から1917年までは軍政下に置かれていたのですが、1918年に民営化が始まります。

 

*この頃日本ではスペイン風邪が大流行し15万人くらいが命を落としています。

 かの島村抱月もスペイン風邪で急逝、マツイ須磨子が後追い自殺をしています。

 そうそう、森永ミルクチョコレートもこの年に新発売されたそうです。

 後はパイロット万年筆ですって。

 凄いですね森永チョコレートって90年以上も前からあったんですね。

南洋群島尋常小学校開設

 

1918年民政化のもと、トラック島(現チューク)に

南洋群島第一尋常小学校、サイパン島には

第二尋常小学校が開校されました。

【内地観光団】と言うのを作って日本内地研修のような事も

していたようです。

内地観光団のメンバーに選ばれるたのは出来のよい子やら

島の有力者のお子様達だったそうです。

 

 

神社の建設 

そして、学校教育の次は【宗教】です。

神社の建設が始まります。

サイパンテニアン等の南洋群島といわれた島には

今でも沢山の神社が残っています。

 

神社を作ると日本人はもちろん、島にいる全ての人々に

参拝を強制したそうです。

まァ、日本人は良しとしても300年以上カトリックの教えに

従ってきた現地の人たちにはどうだったんでしょうね。

恐らく大反発だったと思われますが、、。

 

最初の頃の神社はかなり質素なものだったそうですが、

だんだんと立派な神社が建立されるようになたようです。

しかしやっぱりこの神社政策は非難を受けたようです。

島民の批判ばかりではなく欧米諸国からの反発も

引き起こしました。

きっと現地の人は江戸時代の【隠れキリシタン】みたいな

事になっていたのでしょうね。

 

 

       サンタルーディス、マリアの祠とも呼ばれる

       聖水の湧き出るサイパンの聖地です。

       ここは岩の中にマリア様が祀られています。

       第2次世界大戦中に軍からマリア様を隠した。

       といわれていますが、日本軍政下のサイパン 

       だったら間違いなく迫害されてましたね。

 

国連の承認により正式に日本統治時代始まる

アメリカは当初、日本が南洋を支配する事を快く思っていませんでした。

しかし国際連盟は1920年12月17日に日本が南洋群島を統治することを

許可したのです。 アメリカはそれならそれで仕方無いがグアムはダメよ、

グアムはアメリカ! と言うことで承認したようです。

結果1922年2月11日、ミクロネシアは日本が統治することとなりました。

日本政府は総理府の下に【南洋庁】を設置し海軍から事業を引き継ぎます。

1924年には総理府から外務省に所轄が移され民政化が本格化します。

 

南洋庁の政策

正式に国連に認められ本格的な南洋政策が始まります。

【南洋庁】の政策は以下4点だったそうです。

 

1、経済開発

2、労働力の輸出

3、新植民地原住民の日本人化

4、戦略的軍事力の優位

 

南洋庁本庁はパラオ諸島のコロールに置かれます。

なので、サイパン、パラオ、ヤップ、ポナペ、ヤルート、トラックは

支所となります。

この南洋庁の最高権限者は南洋庁長官。

しかし海軍も駐在武官府をおいたので民政化といえども

限りなく軍政に近い民政化だったようです。

 

昔の日本語教育を受けられた現地の方は

大変お上手な美しい日本語を話されますが、

「私は○○○であります」的な軍人みたいな日本語でした。

殆どの方がもう他界されていますので懐かしい限りです。

 

 

 

 

 

  今なお残る日本家屋

 

                            ここで香取神社のお話!

サイパンで一番最初の神社は香取神社です。

 

1914年10月14日にサイパン島を占領した際、軍艦【香取】は

サイパン沖に1週間ほど停泊していたそうです。

その間、守備隊員は陸に上がっていました。

その際にサイパン島守備隊長は、当時、ドイツ軍の望楼があった

小山をご鎮座の地と選定しその小山を香取山と命名。

頂上に稲荷神社のような小さな祠を建て、守備隊員の守護神として

「香取」の艦内神社からご神霊を分祀したと言う記録があります。

場所は現在のサイパン神社の奥にある祠の辺りだったようです。