金谷安夫氏著 「戦塵の日々」  

「慟哭の島その事実」  金谷安夫氏のホームページ

http://www1.ocn.ne.jp/~y-kanaya/01doukokunoshima.htm

 

自叙伝「戦塵の日々」 原爆の基地テニアン島の戦闘と遺骨収集

 

 金谷氏許可のもと、ここに紹介させていただきます。

 

 

はじめに

 

テニアン島、それは長崎とは非常に関係の深い島であるのだが
原爆基地だったことを知る人は殆どない。
毎年八月九日は長崎の原爆忌で盛大な式典が行わる。
 
私は原爆投下の責任を感じるわけではないが冥福を祈るため
欠かさずお参りしている。
 
しかし、その原爆の飛行機の基地を知っている人は殆ど無く
『沖縄でしょう』と答える市役所の職員が居るなど、
テニアン島を知っている人は非常に少ない。
アメリカは戦略爆撃機ボーイングBー29を開発し、
日本本土を爆撃する基地にテニアンをえらび占領したのであった。
 
殆ど人の知られない小島テニアン島でも日米の死闘が行われ、
島を守る日本の守備隊が玉砕していった。
私はこのような関わりになるなど全く知る由もなく、
召集を受け戦いに臨んだのだった。
 
761海軍航空隊に配属され、昭和192月、
南洋委任統治領のマリアナ諸島のテニアン島に進出した。
 
11日から米軍機動部隊の空襲が始まり、724日米軍上陸、
日本軍は南端に追い詰められ82日玉砕した。
 サイパン・テニアンを取られたのは『肉を切らして骨を断つ』戦法を
取っているのだ。
 
日本が負ける事はない。
必ず友軍が奪回にきて最後は日本が大勝利をあげるのだ、
と、かたく信じ込まされていた。
しかし、いざ戦になってみると、それは大砲に
竹やりの戦いでしかなく、一等兵の私が考えるまでもなく、
大砲に竹やりでは、戦いにならず、誰が考えても、
全く勝ち目のない戦いだった。
 
その中にあって私は九死に一生を得て帰還することができた。
復員後の約10年間は、戦闘の悪夢に追われ、
それから逃れたい一心の日々が続いた。
結婚してからは、仕事と生活に追われるうちに、
テニアンの悪夢は少しづつ薄らいでいった。
復員後二十数年経った頃からは、悪夢を超越して
テニアンの思い出が頭をかすめるようになり、
やがては堪らない思い出となって来た。
 
昭和491月の第一回目の慰霊旅行を皮切りとして、
昭和59年からは厚生省の遺骨収集にも参加し、
毎年戦友のお骨を抱いて帰る事が出来るようになり、
生き残りの責任の一部を果たした気持ちである。
 
太平洋戦争を、本やテレビで見たり聞いたりするうちに、
いずれの戦も、全くテニアンと同様、
負けるべくして負けた戦いだった事を知った。
そして、無謀な戦争に駆り立てられ、多くの血を流しのは
若者たちだった。
この事を思い、二度と前者の轍を踏まないよう、
後の世の孫子の代まで伝え残す責任を感じ、
文才のないことを承知で、拙いペンを取ったものであります。
 
 
        平成8417日                   金谷安夫

目次

 

第一部 召集よりテニアン島玉砕、復員まで
     召集より出動まで                10
       召集令状                  10
       戦史 米軍の侵攻計画            13
       佐世保海兵団                13
       出水海軍航空隊               14
       自動車講習生                14
       龍部隊配属                 15
     敵機来襲より玉砕まで              18
       テニアン島に着任              18
       テニアン島の地誌              19
       敵機来襲                  21
       日の出神社にて               23
       戦史 あ号及びい号作戦           23
       サバネタバス山麓の民家           24
       マルポ菊池さん宅              25
       戦史 サイパン島玉砕            26
       戦死者続出                 27
       戦史 その後の状況             27
       アメリカ軍上陸               28
       高級将校の島外脱出             29
       サバネタバスの炊飯             29
       司令部に集合                30
       戦史 守備隊の玉砕             32
       海岸にて                  32
       海岸からの脱出               34
       洞窟を襲われる               35
       敵と遭遇                  36
       カロリナス台上北部             37

 

       敗残兵生活                 39
       水                     39
       火                     40
       食 糧                   41
       野牛を獲る                 43
       友軍機来る                 44
       塵捨て場の火                44
       DDTの缶                 45
       山 賊                   46
       負 傷                   46
       投降勧告                  47
       洞窟を襲われる               48
       黍畑の生活                 48
       背中の弾の摘出               49
       ブルに襲われる               49
       戦記 掃討戦と終戦             50
       投 降                   50
     捕虜収容所                   53
       捕虜収容所                 53
       投降者名簿                 54
       サイパン島収容所へ             56
       ドンニーの収容所              57
       マタンサの収容所              57
       サイパン島最後の日本兵           58
       収容所生活                 61
       ゴーホーム                 63
       第二陣の復員                64
第二部 慰霊旅行、遺骨収集その他
     復員後                     66
       鹿児島復員局                66
       懐かしの我が家               67

 

       母の手紙                  67
       戦没通知                  70
       加藤康子さんの手紙             71
       戦塵の悪夢                 72
       テニアンへの思慕              73
     慰霊旅行                    74
       慰霊旅行                  74
       久し振りのテニアン島            76
       マリアナ会慰霊旅行             77
       彩友会慰霊旅行開始             78
     遺骨収集その他                 81
       昭和59年遺骨収集             81
       昭和60年遺骨収集             84
       タコ山の遺骨収集              94
       昭和62年遺骨収集             96
       集団埋葬地発見か              97
       プンタンサバネタ海岸            97
       地獄谷の収骨                99
       身元判明遺骨の帰還             100
       遺骨収集の消息               101
       集団埋葬地の収骨              102
       平成年遺骨収集              105
       年次別遺骨収集概況表            108
       明治維新以後の歩み             113
       太平洋戦争の主要な戦い           113
       最後に                   119
 
     後書き                     121
     参考文献                    121      

 

思い悩み考えた事              123
            
   富国強兵の時代              123
   私の知った事実              124
   軍歌と私                 126
   大戦にたいする私の思い          129
   死んで帰れと励まされ           130
   申し訳分けない事             131
   日本刀は勇ましかった           131
   痛かったら生きている           131
   亡き戦友の伝言              132
   人間の性格                132
   米軍の律儀な行動             133
   亡き戦友の声               134
   国の戦争に対する反省           134
   私が生き残れたわけは           134

第一部 召集よりテニアン島玉砕、復員まで

◆ 召集より出動まで

召集令状

 

私は大正9年(西暦1920年)417日生れで、昭和15
(西暦1940年)満20歳になり、国民の三大義務の一つである
徴兵検査を郷里の鹿児島で受けた。
 
生まれつきひ弱な私は、身長159センチ、体重48キロの情ない体だった。
以前なら『丙種合格』だったものが一段階引き上げられた
 『第二乙種合格、第二補充兵』を言い渡された。
 
昭和16年は支那事変の最中で、私たちの仲間で頑健なものは
『甲種合格』となり、現役入隊や召集をうけて、満州や支那に
征する者が多かった。
毎年夏になると、在郷軍人や補充兵を各学校区毎に集めて訓練する
『教育召集』が行われていた。
 
当時私は長崎市の銀屋町に下宿していたので磨屋小学校に召集されて
未教育補充兵の教育を受けた。
そして今の浜の町のアーケイド街を、よく駆け足で走らされていた。
昭和16年の暮れの128日には大東亜戦争が勃発し、
いよいよ風雲急を告げる時代となった。
  
昭和18年(西暦1943年)522
 私は三菱長崎造船所に勤務していた。
半年後の12月初めに技師に昇格すことが内定
若い技術者の卵として張り切っていた。
 
その夜は防護団の当直で、飽の浦の総合事務所三階の
検査課の事務室で仲間と2人で敵機空襲の警戒にあたっていた。
夕食後暫く休息していると卓上の電話がケタタマシク鳴り響いた。
出てみると下宿のおばさんで、鹿児島のお父さんからの電報が来たという。
 
その電文は『お召しの令を受く61日佐世保に入団26日頃帰れるか
返、貞辰』との事だった。
 
佐世保に入団ということは海軍に入るという事である。
私は陸軍の補充兵だったので私ではないはず、それならば誰だろうか。
 直ぐ下の弟の繁は船に乗っていて軍属だったので召集が来る筈がない。
次の弟の研三は中学生で彼ではない、もしや父ではないかと思い、
ヒャッとしたが五十歳を越えた父に召集が来る筈がない。
どう考えても私に間違いないように思える。
しかし私は毎年の教育召集で浜の町を駆け足していた陸軍の補充兵であった。
 
なぜ海軍から召集がきたのか、防護団の当直室で他の者と思案していた。
当時三菱の長崎造船所では世界情勢を反映して昼夜兼行で
軍艦建造に邁進していた時代だっ
海軍の艤装員の兵隊も数多く駐在しており、
中には夜中まで機器の運転立ち会いや、検査に駆り出されている
兵隊達もいた。
当直室にその艤装員の兵隊が電話を借りにはいってきた。
彼が用件を済ました後で聞いてみた、
『海軍も人員不足で前に1回陸軍の補充兵を採った事がある、
それでは今回は2回目だろう』と言う事であった。
これで私に間違いない事になった。
当直室で仮眠中も色々な事で頭の中は渦巻いていた。
 
一夜明けて23日朝 皆が出勤して来た。
昨夜防護団の当直中に電話で召集令状がきたことを上司に報告し、
仕事の引継ぎや私物の整理をして、その日は早めに会社をひけて
下宿に帰り身辺の整理をした。
そして、25日に給料を貰い、夜行列車に乗り
26日朝鹿児島着と言う手筈をつけ、故郷の家に通知した。
 
10

 

今も当時の父の電報は大事に保管している。
 
その写し
 
         電  報
     一九二
     四〇  カゴ シマ  六八四   コ五、二〇
     ヤハタマチ 六二バ ンチ」
     フカエカタ」
     カナヤヤスヲ
     オメシノレイヲウク六ツキ一ヒサセホニウダ ン二六ヒゴ ロカ
     ヘレルカヘンサタトキ
                      受信 コ七、六  三〇九
 
父から書留速達便も届いた。中には召集令状が入っていた。
その写し
 
     拝啓其後は如何御暮し候や御変り無く無事御勤務の御事と察し
     申し候 当地に於ても皆無事で居ります
     さて本日正午御元への應召令状が参りました 誠に国家多難の
     折り 金谷家の光栄とする所にて誠に誠に御芽出度次第に御座
     候 成る可く二十六日頃〓の内に帰鹿児相成る様御心掛け置下
     され度 荷物も簡単にして帰る様 余りの荷物は誰れかに依頼
     して あとで託送して貰うようにするか 又は御父さんが御許
     を佐世保に同道して帰りに長崎にへ行って荷物を片付けるか色
     々と考え居り 机と本棚は破損し易いから持って帰らん方がよ
     かろうと思う 手紙応召令状御送り致しますから何卒大事に保 
     管する様 余は御面談の上 御自愛専一に
                             父よ
       金 谷 安 夫 殿 
 
11

 

昭和の時代だったが、昔の武士の家系の家で育った父から見れば、
息子が応召すると言う事は光栄で目出度い事だったのか。
 手紙には『誠に国家多難の折り金谷家の光栄とする所にて誠に誠に
御芽出度次第に御座候』とあった。
 
また弱音をはく事の出来なかった時代だったので見栄を張って書いた事か、
父の心を察するに余りありと言った所であった。
 
父が私を佐世保に送り届け、その帰りに長崎の下宿に立ち寄り
荷物を整理してくれる等、父の心遣いが忍ばれた。
当時は『御座候』と候文が使われる時代で現代の平成の今から見ると
遥か遠い昔の感じがする。
 
海軍に入るのであれば憧れの軍艦に乗れる。
父は文科系で鹿児島の市役所に勤めていたが、
祖父は船乗りで外国航路の機関長の免許を持っており、
日露戦争の時は御用船(徴用された船)に乗っていたとの事であり、
私は造船所に勤務している事でもあり、祖父の跡継ぎの格好で、
船には興味があり特に軍艦には憧れていた。
  
軍艦の建造を行っている造船所に勤務しているので、軍艦に乗って
その運用を習得すれば将来の為に非常に良い事だと思っていた。
私の勤務先が造船所であり、工業学校を卒業しているので
機関兵に成るのだろうと心を弾ませていた。
当時長崎造船所では戦艦武蔵を始めとし巡洋艦駆逐艦航空母艦を
昼夜兼行で建造していた。
 
商船を改装した小型空母には動揺止めの為にジャイロスタビライザーが
装備されていた。
ジャイロスコープの原理を利用した機械で、空母の動揺を防止し、
 飛行機の発着をし易くする機械だった。
 
その機械はアメリカで設計されたもので、敵国アメリカとの技術力の差を
青二才の私でも感じない訳にはいかなかった。
 
25 長崎駅前の広場で会社の人や町内の人々が円陣を作って歌う
「勝って来るぞと勇ましく」と軍歌に励まされ、
郷里の鹿児島に向かうべく夜行列車で長崎を離れた。
列車の中は次第に静かになり、只レールの継ぎ目の「ことんことん」
の音だけが単調に響いている中で、今後どうなるのか考えながら
今までの人生を思い返していた。
  
昭和16128日のハワイの真珠湾攻撃に始り
開戦当時は香港、マニラ、シンガポールの占領と華々しい
日本軍の戦果が続いていたが、開戦後僅か1年半程たった今日、
戦果報告のラジオニュースが少なくなり何だか不安な事が脳裏をかすめた。
 
艦が沈没する時どんな状況になるのか、
 機関室内はどんな状態になるのか、もしボイラーが爆発すれば
高温の蒸気に焼かれ一瞬にして死ぬのだろうか、
また浸水した機関室ではどうすれ良いのか等、
とうとう私にも死ぬ時が来たのか。
父の手紙には『金谷家にとって名誉この上なき事にて・・・』とあるが、
短身弱肉の私には産業戦士の方が国の為になるのにと思いながら、
夜汽車に揺られまんじりともすることも出来なかった。
26日朝 鹿児島駅に到着、懐かしい我が家に帰り着いた。
親戚の家々に挨拶をしなければならず墓にも参らねばならなかった。
父が道順を考え同行してくれたので大助りだった。
帰宅後の日は瞬く間に過ぎ去っていった。
氏神様の長田神社で武運長久を祈願し、近所の人や親戚の人達の
送別を受け皆に励まされて、531日夜行列車に乗り佐世保に向かう。
父が付き添い同行してくれたので心強かった。
 
61日朝 佐世保駅に到着。
駅には海軍の係員が来ていて、指図どうりに移動して、
海兵団の門前で父と別れ中に入る。
体検査を受け無事合格した。
衣類、靴、帽子を受取り着いた所が私の班だった。
班長に水兵服の着方を教わって着替え、私物は全て梱包して、
班長に連れられて門に行き、荷物を父に渡して私は得意になって
父に挙手の礼をして別れた。
父はその後長崎の私の下宿に立ち寄り荷物を整理してくれたのだった。
 
12

戦史 米軍の侵攻計画

 

アメリカ中部太平洋艦隊がギルバート諸島・マーシャル諸島を制圧し
トラック島を孤立化し次の攻略目標にマリアナ群島を選んだのは今までの
伝いの攻略作戦とは違ったもっと遥かに重要な理由があったからである。
 
日本打倒の為の全般計画の最終の目的は、日本本土に強力な航空攻撃を加え
日本本土を空と海から封鎖する、そして日本本土に進入出来る基地を占領する、と言うものであった。
 
この目的を達成する為には長距離戦略爆撃機を発進させる太平洋上の基地
必要であった。
マリアナ群島ならば東京まで2,500キロメートル、
充分に超空の要塞Bー29の航続距離内に日本本土は含まれる。
 
Bー29地設定の為マリアナ群島を速やかに占領する事を重点とする命令が中部太平洋部隊司令長官ニミッツ提督に発せられた。
 

佐世保海兵団

 

入団当時は海兵団の生活に慣れるのが精一杯であった。
女学生にもてた水兵さんのセーラー服だったが、着るのが大変だった。
 
 貰った服を体に合わせる為に、裾丈、袖丈を曲げて合わせる。
今までした事のない針仕事だ。ズボンの丈、胴回りを合わせる。
 海軍の兵隊のズボンにはベルトも紐も無いので胴に合わせ
縫い縮めるより致し方ない。
 
上衣には水兵服特有の後ろ肩についた俗に言う「よだれかけ」があり
それに中着襟を付け襟飾り(ネクタイ)を服に通した紐で縛って付ける。
この着かたが大変だった。
 
しっかり縛ったつもりの襟飾りがいつの間にか外れていたり、
中着襟が外れたりだった。
 
三度の食事は当番が烹炊所で御飯とおかずの入った配食缶を受取って
班に持ち帰って配食し、班員一同一緒に食事する。
 
夜は兵舎の中二階に保管してある吊床(つりどこ:ハンモック)を下ろし、
吊床を縛ったロープを解き、そのロープで部屋の梁のフックに
両端を縛り付ければ寝床は完了する。
そしてその吊床は、わらマットと毛布二枚と帆布(キャンパス)
とロープで出来ている。
 
案外寝心地は良いものであったが、『吊床おろし』の訓練が
何回もあり寝るまでしごかれた。
この吊床は戦闘中の重要計器や重要部署を保護する目的もあった。
軍艦三笠の艦橋で指揮をとる東郷元帥の絵のなかの、
あの白いハンモックの様にして使用されるのである。
13

出水海軍航空隊

 

入団して一週間が過ぎ隊の生活にも幾らか慣れた六月六日、
鹿児島県出水の練習航空隊に転勤になった。
鹿児島出身の私には嬉しい事であった。
 
出水航空隊に転勤してからは、新兵としての訓練が始まった。
学校教練の初期程度の訓練だった。
その後整備兵となり、飛行機の整備兵としての訓練を受けた。
軍艦に乗る事を楽しみにしていたのだったが、陸上の航空隊勤務だったので
がっかりした。
 
飛行機はオレンジ色に塗られた、2枚翼羽布張の機体で安定性の優れた、
通称赤トンボといわれた練習用の飛行機だった。
 
年兵の中に遠目塚という中島航空機製作所の赤トンボの
製作工場から来た兵隊がいた。
彼は飛行機の機体や発動機について非常に詳しかった。
 
私は工業学校の機械科を卒業していたので発動機の事は
素人よりはましな知識を持っていた。
 
先生の質問に答えられるのは何時も彼と私の2人だけだった。
教官はしまいに、お前達二人は手を上げないでよい、
と言われる程だった。
 
2人のほかに分かるものは』と言われるが、
発動機の構造はそう簡単に理解できるものではなく、
手を上げるものは殆どいなかった。
 
赤トンボの要目は
空技厰93式中間練習機 赤トンボ(K51)機体は2枚翼の羽布張り/       乗員2名/エンジン天風11340馬力/全幅11m/全長8.05
自重1,000㎏/総重量1,650㎏/最大速度219㎞時/武装7.7㎜機銃二/
総生産機数5,591機/ 昭和9年~20
 
 
自動車講習生
 
9月に入り自動車講習生の募集があった。
私は工業学校当時、何回か自動車を運転したことがあった。
また三菱長崎造船所に入社した当時の市内の交通機関は電車が主で
バスが一部の路線で走っている位であり、自家用車は病院か
大金持ちか運送業者のトラックが少しあった程度であった。
 
自動車は個人で動かせる唯一の乗り物であり、自動車の免許を取りたいと
かねてから思っていた矢先だった。
 
赤トンボの整備も大方分かったので、昔の思いにかられ、
受講の申し込みをした。
 
916日自動車講習会は開始された。同日新兵教育が終り
海軍一等整備兵に進級した。
 
海軍が自動車の講習をするのは初めてで、我々はその第一回生だった。
講習は先ず、自動車各部の名称を覚えることから始まり、運転、
整備が主で、雨の日は法規の座学があった。
 
隊内の飛行場の片隅に自動車の運転に必要な場所を借り、
水溜まりには海岸から砂を取ってきて埋めて整地した。
 
広場に受験用のコースを作り箱や戸板を並べて町並みに見立てて、
戸板を跳ね飛ばさないよう注意して運転した。
隊内で運転が出来る様になってからは隊外に出て一般の道路での
訓練になった。
 
昨日は水俣、今日は阿久根方面へと行き、交替で運転して自動車に
慣れていった。
最後に運転の実技と学科の試験があり、無事合格し海軍の自動車運転の
免許と、特技章を貰い、1130日自動車講習第一期生を卒業した。
 
免許がとれたので、とても嬉しかった。
これで郷里に帰ったら、自動車を借り得意になって運転出来る、
と思うと嬉しくてたまらなかった。
 
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龍部(りゅう )隊配属

 

1222日自動車講習を終了し、鹿屋の海軍航空隊で編成中の
「第761海軍航空隊」に配属になった。
 761海軍航空隊は、秘匿名を「龍部隊」といい、一式陸上攻撃機という
重爆撃機の航空隊だった。
 
その761航空隊は、第航空艦隊の中の第61航空戦隊の重攻隊だった。
海軍の航空隊は軍艦と同じく艦隊、戦隊と呼ばれ、その系統は、
航空艦隊航空戦隊航空隊となっていた。
 
航空艦隊は大本営直卒兵力という親衛隊的な属目(しょくもく)された
艦隊で、司令長官は角田覚治中将で、マリアナ西カロリン方面に
12の基地を持ち、偵察機・戦闘機・爆撃機などの飛行機1,340機を有する
大航空艦隊だった。
 
第一航空艦隊テニアン基地の十九年六月中旬の編成は次の通りだった。 
 
隊 名           司  令     機 種   数 量
  第一二一空(雉部隊 彩雲)  岩尾 正次中佐  艦上偵察機 36 艦爆 2
  第二六一空(虎部隊 零戦)  上田 猛虎中佐  零式戦闘機 54
  二六三空(豹部隊 零戦)           零式戦闘機 64
  第三二一空(鵄部隊 月光)  久保徳太郎中佐  夜間戦闘機 54
  第三四一空(鵬部隊 銀河)           攻撃機   54 
  第三四三空(隼部隊 零戦)  竹中 正雄中佐  零式戦闘機 54
  第五二一空(獅子部隊 紫電)          戦闘機   54
  第五二三空(鷹部隊 彗星)  和田鉄二郎中佐  艦上爆撃機 72
  第七六一空(龍部隊 陸攻)  松本 真實中佐  一式 陸攻 72
  第一〇二一空(鳩部隊 深山) 栗原 仁志大佐  遠爆1 陸攻2                                     
                              ダグラス6
                                                   
                           零式輸送機 36
                                                                             
                         
 
一式陸攻は支那事変後期より、わが国海軍の中心的な
攻撃機として活躍した。
双発、単葉爆撃機で尾部にも20ミリ機銃があり、
尾部の丸い万年筆型と言われた美しい流線形の胴体が特徴であった。
 
要目は次ぎの通り。
三菱一式陸上攻撃機 24J型(G42E)雷爆撃、偵察乗員7
  
エンジン三菱火星25型空冷星型14気筒1,850馬力×2
 全幅24.88m/全長19.97m/自重8,930㎏/総重量15,500
/最高速度396㎞時/航続距離3,574㎞/上昇限度7,250m/
 武装20㎜機銃×4・7.7㎜機銃1/兵装80番爆弾×1又は91式魚雷×1
/総生産量2,416(各型を含む)昭和1520
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の様な飛行機の航空隊に勤務する事は、非常に名誉な事だった。
龍部隊は昭和1871日に編成され、私たちが配属になった12月は
鹿屋基地で猛訓練を開始していた。
 
我々車庫の分隊(自動車部隊)も猛訓練と同時に猛烈にシゴカレル事に
 なった。
 
日課はともかくとして、下士官達の自慰の為の制裁としかいえない制裁で、
海軍では『軍人精神注入棒』という、野球のバット様の木の棒で
尻を叩くのである。
 
中には叩かれて再起不能ではないかと思われる者も出る始末で、
無茶にも程があった。
上等兵が1人再起不能で退役し、私どもの同年兵も2人が逃亡した。
叩かれている者もやがて下士官になり、仕返しの為に叩くという
順繰りのものであった。
 
明けて昭和19年、正月は元日だけが休みで帰郷は許されなかった。
  
1月下旬になって休暇があり郷里に帰って、父にバリカンで散髪
してもらいながら「この髪を残しておいたら」といってみたが、
その必要もなかろう』と父は言っていた。
(生きて帰れとの父の願いだったのか、父の千里眼か、
おかげで私は九死に一生を得て帰還したのだった)
 
それから父母兄弟に別れを告げて帰隊した。
 
その後、龍部隊全員で鵜戸神宮に参拝、武運長久を祈願し、
 2月上旬航空母艦『千歳』にてテニアン島向け鹿児島湾の古江港を発進した。
 
私は出港当日朝、尻を叩かれた。
起重機車を運転して航空母艦千歳の待つ古江港に向かう途中、
尻の痛さに耐えかねて古江の坂道で運転を誤り、
10m下の川に転落して負傷し、鹿屋航空隊の病室に入室したので
皆に遅れてテニアンに行くこととなった。
 
およそ2ヶ月で傷も癒え3月末に退室した。
その間僅かな給料だったが貰っていなかったので煙草も買えず閉口して、
家から少し送ってもらった事を覚えている。
 
輸送機を手配してもらい10人乗り程のダグラスの小型機に、
千葉県の館山航空隊まで便乗させて貰った。
途中風雨となり気流が悪く、何度もエアポケットに落ちてバウンドし、
その度に積み荷も上下に踊っていた。
 
そして、かろうじて館山空(館山航空隊)にたどり着いた。
館山空の司令は搭乗員に天候の悪い時は飛ぶなと注意していた。
館山空に1泊させて貰い、翌日汽車で千葉県の香取航空隊に向かった。
 
到着してようやく龍部隊の残留部隊(留守部隊)に辿り着くことが出来た。
テニアンに何回も行った人達らしく真っ黒く日焼けして頼もしい人達だった。
 
サイパン・テニアンに行く人達が10人ばかり待機していた。
飛行場には鹿屋航空隊で見慣れていた一式陸攻がおり、
これで連れていってやると言われて安心した。
しかし今日は現地の天候が悪い、今日はマリアナ地方は空襲の恐れ有り、
などでなかなか飛行機は飛ばなかった。
 
私は南洋に行くので冬の被服は全部返納し、冬物を持たず、
夏服を重ね着して寒い吹き曝しの中で震えていた。
 
 49日になり横浜からサイパン行きの飛行機が出るので
横浜に行けといわれ移動した。
 
我々便乗者10人は、410日の夜は横浜の旅館に1泊した、
当日は異常寒波で雪が降っていた。
翌日の早朝、横浜航空隊に移動し二式大艇に便乗する。
初めての飛行艇である。
 
飛行艇はトロッコに乗せて陸上に引き上げてあった。
上艇前に体重測定があり、指定された場所に着席し、
シートベルトを着用する。機内は上下の2階に別れていた。
全員配置に付きトロッコは斜面を下ろされる。
機は海に浮かぶ、発動機が始動され爆音が響き渡り、ゆっくりと走りだす、
暫く旋回して走り、波を立ててから発動機を全開して飛び立った。
離水し易くするために波立たせるのだという。
暫く飛行し巡航高度になったところで、シートベルトが解除された。
搭乗員からメモで「小笠原列島上空、左舷下は八丈島」と連絡がはいる。
硫黄島を過ぎて暫く島影のない海原の上を飛んだ。
昼食をとり、暫くすると機内が暑くなって来た、重ね着していた服を
少しづつ脱いだがそれでも暑く、搭乗員に送風を頼む、
通風口から涼しい風が流れて来てほっとする。 
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「間もなくサイパンに着く、指定座席に戻る事」と連絡が来た。
席に戻り暫くして、左舷側にサイパンの島影が見えて来た、
 ぐんぐん高度が下がる、白く波の砕けるリーフに囲まれた内海は
まるで箱庭のように美しかった。
 
高度が下がるに従い波打ち際にヤシの木が見える、
波止場が見える、水上基地には飛行機が翼を休めている。
暫く旋回して着水した。
 
機はトロッコに乗せられスロープを引き上げられ、そのまま格納庫に
収納され、便乗者も下ろされた。午後2時だった。
 
始めて来た南洋の島サイパン、見るもの聞くもの皆な
初めての物ばかりだった。
 
会う人見る人、皆黒んぼの様に真っ黒な人ばかりで、凄いな!と思った。
雪の横浜を午前6時に出発して八時間巡航速度で2,350キロの旅だった。
 
僅かな時間だったが気温の変化は大きかった。
雪の横浜から南洋のサイパン島まで、本当のひとっ飛びだった。
 
司令部に挨拶に行く。
翌日の船便でテニアン島に行く事になり、一晩司令部に泊めて貰う。
南洋の星空は美しかった。
 
北極星は内地よりはるか下で緯度の低下が感じられた。
南洋の夜の風は涼しく星空が美しかった。

 

二式大艇の主要目は次の通り。
 
 二式飛行艇12型(H82)全幅37.98m/全長28.12m/全高9.15
/自重18,380Kg/総重量24,500Kg
 過荷32,500Kg/発動機:三菱「火星」22型×4/公称1,680馬力
/離昇1,850馬力/燃料18,880リットル
/最高速度245ノット(454Km時)/巡航速度160ノット(296Km時)
/実用上昇限度9,120m/航続距離3,862カイリ(7,153Km
(燃料15,956リットル、重量22,500Kgの偵察状態)
/武装:20mm5・7.7mm銃×3(予備)
/爆弾250Kg×8又は60Kg×16/乗員10
/総生産機数約130機(各型を含む)/昭和十六年~二十年
 
 
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テニアン島着任

 

昭和19411日朝 波止場に行き、
テニアン島行きの船を待つ。
テニアン島はサイパン島の南5キロにある高い山のない平らな島で
当時は不沈空母と呼ばれていた。
 
それに対しサイパン島はテニアンより大きく陸軍が主力で
不沈戦艦と言われ、テニアン島の兄貴分の島であった。
波止場からテニアン島がよく見えていた。
 
馬船と呼ばれる小型の舟艇に乗船した。
さんご礁の海は波静かで海底のさんごが見える、外海に出ると
急に波が大きくなった、ここは太平洋の真ん中だという事を感じた。
 
小さな船で波の底に入ると四方波ばかりで何も見えない、
海の中に引きずり込まれる思いだった。
 
テニアン島の西側は殆ど切り立った断崖で、船が近付く事は出来なかった。
サイパン島とテニアン島の間は僅か5キロしかないがテニアンの港は
島の南にあり、船が小さかったので3時間程かかってやっと港に着いた。
 
仲間の上等兵が定期連絡のトラックで来ていたので乗せてもらい、
皆より2ヶ月遅れてやっと原隊に復帰した。
 
その頃の自動車部隊の活動は、人員、機材、爆弾その他の運搬作業、
波止場と基地の連絡それと、水道設備がない基地では水の運搬は
重要な仕事だった。
 
テニアンには島の南のマルポー地区に唯一の井戸があり、
そこから隊まで約15キロの距離をドラム缶で運んだ。
 
夜間飛行があるときは、滑走路の両側に石油ランプをトラックで運び設置し、飛行作業終了後は火を消して回収せねばならなかった。
 

 

海軍では、本来の作業以外に
巡検(じゅんけん)後整列
と言うのがあった。
 
甲板士官の夜の点検が終り、
その後はしばし休息の時間があり、
消灯の時間になると室内の電灯が
消され就寝するのであるが、
車庫の分隊(ぶんたい)では
巡検が終わると必ずと言っていい程、
毎晩下士官が一等兵上等兵を集めて
説教をする『巡検後整列』である。
 
何かしくじりをしたのならともかく、ただ、下士官や兵長たちが
威張り散らすための整列であり、説教だけでなく海軍特有の
『軍人精神注入棒』と称する野球のバット様の木の棒で尻を叩くのである。
 
意地の悪い下士官は力一杯叩きその数も多いので、生身の人間は
たまったものではなかった。
 
おまけに、自動車の運転手は運転席に座るのが仕事であり、尻が痛くて
座れない時はどうにもならず、本来の軍務に支障を及ぼす程であった。
 

4月中旬、同年兵のT一等兵が逃亡した。

Tは前夜逃げたらしく朝の点呼の時、不在で逃亡が発覚した。

 
作業も人数を減らし夜を日に継いで3日間探したが見当たらなかった。
4日目の朝の点呼(3時)後、ふとTが現れた。
同僚の江越一等兵と湯浅一等兵に相談に来たのだと言う。
しかし、公に成った以上、如何とも致し方ないので、
『出るところに出て、ありのままをぶちまけ、
成り行きに任せるより仕方がない』と言う事で、
司令部に出頭させた。
 
T一等兵はその後、内地に送還され普通兵員として
佐世保の海兵団で元気訓練に励んでいるとの連絡があった。
 
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パート2へ続く