南洋開拓移民団

          写真は移民募集のための偽物だった!

菅野静子氏著の「戦火と死の島に生きる」からの引用ですが、

真実はこういう事だったのかとと思いました。

 

移民募集の為だけに作られた偽の写真!

郷里の山形で見た移民開拓団募集の広告は

鉄筋コンクリート建ての立派な小学校、病院、

美しい商店街の写真が載せられていたと、

そして到着したテニアンは見渡す限りうっそうと

生い茂るジャングル。

足元深く雑草が生い茂る無人島!

あの写真は移民募集の為だけに作られた偽の写真であった。

と書かれています。

 

テントの中に、昼ごはんが用意されているという知らせが来た。

テントの中へ入ると、中には横に切った丸太を足にして、その上に板を乗せただけのテーブルが

2列になっていて、原始時代を思わせるものであった。テーブルの上に丼が並べられてある。

ご飯の上が真っ黒に盛り上がっているので、母はごま塩でも振り掛けてあるのかと思ったそうだ。

 

長い船旅で、船酔いの激しかった人々は殆ど何も食べていなかった。

大きなお腹を抱えた渡辺さんの奥さんが、ふらふらした足取りでテーブルに近付いていった。

突然、「キャー」という悲鳴を上げて倒れた。どんぶりの上の盛り上がった黒いものは胡麻塩ではなく

何と真っ黒な大きな蝿であった。目玉がぎょろぎょろ飛び出したハエ。

こんな恐ろしいハエを誰も見た事が無かった。

 

カレータ (牛舎)に乗って

 

   

  17世帯の家族は、それぞれ係員に伴われて

  テニアン島の各所へ分散させられてしまった。

  何時間もデコボコガタガタ道をカレータ(牛舎)に

  のせられて、カレータから降ろされたところが、

  これまた恐ろしいジャングルの中。

 

  どこをふりむいても太陽の光が差している場所は無い。

  草のつるが絡まった木や雑草が背丈より高く

  生い茂っていて昼だか夜だかもわからないほど暗い。

 

ジャングルイメージ
ジャングルイメージ

係員が鎌で雑草を刈りはじめた。わずかばかりの空き地が出来た。

そこにテントが張られ、地面の上にむしろが敷かれた。

これが我が家で、5人の家族が住む家となった。

係員はこれで自分の仕事は済んだとばかりに

「あす、また来るから、、、、、」

 

こんなむちゃくちゃな事があるだろうか?

捨て猫でもあるまいし、、、、、。

父はそのとき35歳、母は28歳、兄9歳、姉3歳、

私が生後9ヶ月(著者静子氏)であった。

 

    

    菅野静子氏著より引用

ジャングルの開墾

まだ人間の踏み込んでいないジャングルの中は、動物や虫などあらゆる生き物が恐れを知らず集まって

来たそうです。中でも30センチもあるようなヤモリがランプの光に誘われて大群でテントの布に張り付いて、

しかも一晩中ギャ、ギャ、ギー、ギーと背筋の寒くなる泣き声だったと。。

しかもやぶ蚊の大群が群れを成して人間に襲い掛かってきたと、、、、。

これが移民団がテニアンに到着した初日の夜のことだったそうです。

 

翌日南洋興発の係員が土人を連れてやってきて、マルタの小屋を組み立てて行き、静子さん一家は

この丸太小屋に住んでジャングルの開墾にあたったのです。

 

この無人島では各人ひとりひとりが自分で生きる道を考え出さねばならなかったと、、、、、。

ジャングルを開墾するのには、のこぎりで木を1本1本切り倒し、くわで木の根を掘り起こして

畑にするまでに何ヶ月もかかったそうです。あてがわれた土地を全て開墾するのには

それこそ2年も3年もかかったそうです。

 

昭和4年には新たに3家族が入植。テニアンの人口モ少しずつ増えてきたがテニアンの面積は

約98平方キロメートル(八丈島の1,4倍)、周囲50キロメートルの島にポツリポツりと建っている家を

見つけ出すのは夜空に1番星、2番星を見つけるより困難な事だったと記しています。

 

何か切ないですね、、。

 

でも、それでも皆さん苦労してジャングルの開墾を進めて行ったのです。

やらざるを得なかった、、のでしょう。

南洋興発の発展は移民団の語り尽くせないこのような苦労のもとに成り立っていたんですね。  

2年も3年もかけて、やっと開墾した土地にサトウキビが植えられるようになった頃

静子さん一家は更に北の方の土地に移動させられたそうです。

 

苦労して開墾した土地は人手に渡り人がまだ一歩も足を踏み入れた事が

無いような厳しいジャングルの開墾がまた始まるのです。

 

これは、南洋興発株式会社が移民開拓者達を利用して次々とテニアン島の

ジャングルを開墾させる為の手段であったのだろうと静子さんは語っています。

 

 

沖縄からの移民 差別

植民地支配に起こる差別!

 

南洋には沢山の沖縄人も移民していました。

大正末期から昭和初期の頃の沖縄は経済が破綻、

沖縄市民は極度の貧困生活で飢えをしのぐ為に

毒があると解っていながらも食べられるものは何でも

食べたそうです。

毒があるソテツをも食さねばならない「ソテツ地獄」と

呼ばれる暮らしがそこにはあったのです。

沖縄から南洋に到着した時、パパイヤ、バナナ等の

ジャングルに自生する南国の果物を見て

最初は天国のようにさえ思えた。と語ってくれた方がいます。

しかし、植民地政策の中で沖縄の人は差別されていたのです。

沖縄人は賃金が安く済む、、、といわれていたそうです。

 

ここ南洋での差別は同じ地に暮らす人間に対し階級を

つけていた事です。

 

14,000人くらいの日本人のみを一等市民と格付けし、

沖縄、朝鮮からの労働者を二等市民、そして現地のチャモロ人と

カロリン人を三等市民とし差別をしていたのです。

 

更に、南洋興発は開発の為とは言えテニアンの殆どの森林を

撲滅し農地、工場、住居、道路へと開墾してしまった為、

チャモロ文化を知る手がかりとなる古代遺跡(ラッテ遺跡)を

殆ど破壊してしまいました。

また、サトウキビに付く虫を駆除する為に外から持ち込んだ蝿等が

伝染病をまきちらすなど人体への被害にも及びました。

 

もともとこの島は珊瑚が隆起して出来た島なので

海の中にあったもの以外は全て外から持ち込まれたものです。

昔、この島には風邪と言う病気も無かったそうです。

これも日本人が持ち込んだ病で、最初に持ち込まれたときは

沢山の現地人が成す術もなく亡くなっていったと聞いています。

 

サイパン数え歌 沖縄民謡

沖縄民謡の中に「サイパン数え歌」と言うのがあります。

サイパン島へ移民団として入植され、第二次世界大戦をこの

南洋で戦い故郷沖縄を想って歌われたのでしょう。

 

       ひとつとサーノエー
       広く知られたサイパンも
       今はメリケンの旗が立つ

       情けないのよ、あの旗は

 

       

       ふたつとサーノエー
       両親はなれてサイパンで
       今はメリケンの牧場で 
       その日その日を送るのよ

 

       みっつとサーノエー

       見れば見るほど涙散る
       山の草木も弾のあと
       罪無き草木に傷つけて

      

   

       よっつとサーノエー
       四方山見れば敵の陣
       一日一日陣地を固め
       情けないのよ敵の陣
 
       いつつとサーノエー
       いつまで苦労と思うなよ
       やがて助かる船が来る
       お待ちしましょう皆さまよ

 

       むっつとサーノエー
       無理な仕事をさせられて
       強い身体も弱くなる
       情けないのよ無理仕事
 
       ななつとサーノエー
       なんと私が威張っても
       日給はただの35仙
       情けないのよ35仙
 
       やっつとサーノエー
       夜勤は私は嫌ですよ
       嫌といわせぬこの夜勤
       情けないのよこの夜勤
 
       ここのつとサーノエー
       これから先は我々は
       助けられたり、助けたり
       同じ日本の人だもの
 
       とうとサーノエー
       とう坂上る日の丸は
       国の光を輝かす
       何で日の丸忘らりょか
 
       じゅういちとサーノエー
       いつも来る来る日本軍
       来る時期早いかまだ来ない
       おまちしましょうよ、皆さまよ。