サイパン島のある事がギネスブックに出ています!        ご存知ですか?

サイパン島は南北に22キロ、東西に9キロ。

総面積は185キロ平方メートルの南国の島です。

日本では小豆島とほぼ同じ大きさ、又は伊豆大島の2倍になります。

日本から見た地図上の位置は小笠原諸島の延長線上と考えてください。

北緯15度、東経145度にあたり1年中真夏です。

年間を通しての平均気温は27度くらいです。

【年間平均気温が殆ど変わらない島】と言うことでギネスブックにも認定されています。

 

北マリアナ諸島は14島!

サイパン島は北マリアナ諸島の中心的な島です。

北マリアナ諸島には14の島があります。

サイパン、テニアン、ロタ

この3島は聴き覚えがあると思います。

他にはアグリハン、ファラロンデメディニーラ、

マウグ、(聞いた事もないですよね)

アナタハン、この島は第二次世界大戦後に

【アナタハンの女王】と言う言葉で有名に

なった島です。

*アナタハン島のお話はパウパウブログでも

 書いているので気が向いたら読んで下さい。

 http://blog.livedoor.jp/pau2tours/archives/51519929.html

 

2003年には火山の噴火もありました。

他にはググイアン、アラマガン、パガン、

アスンシオン、マウグアイランド

フェラロンデパハロス。

以上合計14島です。

いつかお金と時間が出来たら全ての島を

訪ねてみたいと思っています。

最初に上陸したヨーロッパ人はマゼラン?

島の言語はチャモロ語、カロリニアン語と言われるものですが、

チャモロ語の中にはスペイン語や日本語が沢山混ざっています。

その理由は北マリアナ諸島が長い間、植民地であった為です。

 

1521年にポルトガル人のマゼランが島を発見し上陸します。

日本はその頃室町時代で武田信玄が生まれた年にあたります。

 

そしてこの島々はマリアナ諸島と名付けられるのですが、

名付け親はその後にこの島に訪れたイエズス会の宣教師、

カトリック司祭のディエゴ ルイス デ サンビトレスと言う人が、

その頃のスペイン王妃の名(マリアナ)をとってマリアナ諸島と

名付けたと言われています。

 

しかし、最初に島を発見したマゼランの乗組員達は

この島を【de los Ladrones】と呼びました。

de los Ladronesとは泥棒の島と言う意味だそうです。

 

それと言うのは、マゼラン一行は太平洋に関する知識は殆ど無いまま、

この海域に入ってきたようです。

マゼラン海峡を抜け太平洋に到達するまでに難破、暴動、脱走などの為

2席の船を失っていました。乗組員にも具体的な航海計画は知らされて

いなかったそうです。

 

水も食料も不足し壊血病と飢餓のため沢山の犠牲者も出ています。

マゼラン一行は水や食料を調達する為、島への上陸を試みます。

が、原住民達が船に乗り込んできて手当たり次第に何でも持っていってしまい、

船尾につないであった小船までも持っていってしまったそうです。

 

それに怒った提督は40名の武装した乗組員達とともに上陸し住民7人を

殺害したうえ民家4,50軒にも火をつけ、取られた小船を取り返したと、

乗組員の一人だったイタリア人のアントニオ・ビガフェッタの手記に書かれています。

 

そういう理由でde los Ladrones、もしくはロードス!

泥棒の島と呼んだそうです。

 

 

これがチャモロ原住民とヨーロッパ人との初の出会いになります。

この後マリアナ諸島はスペインの領域とされスペイン支配の植民地となったのです。

そしてまもなくキリスト教布教も始まります。

 

写真はガラパン教会の裏手に建っているスペイン統治時代の名残です。

スペイン教会の鐘楼、鐘はサイパン博物館に保存されています。

彼らはどこからやってきた?

マゼランが島を発見する以前、

そう、紀元前16世紀ごろに

チャモロ人、カロリン人が

原住民として住みはじめます。

チャモロ人は東南アジアや

マレーシア、フィリピンの方から

カロリン人はほかにミクロネシアの

島々からカヌーに乗ってやってきたと

言われています。

 

彼らが乗ってきたカヌーは

フライング・プロアと呼ばれ

三角帆が飛んでいるように

走っていたそうですよ。

真っ青な海に三角帆のカヌーが

ピュンピュン飛んでいる光景!

想像してみてください。

 

写真のカヌーは現代の物です。

近々、高校生チームのカヌーレースの大会が催される為、特訓中だとか、、。

 

古代チャモロ人!

北マリアナ諸島にはラッテストーン、

又はタガストーンと呼ばれる石柱があります。

タガ王朝時代に作られたという石で出来た

不思議な形の柱です。

 

サイパン島のラッテストーンは

日本統治時代の開発やら

第二次世界大戦やらで

もう殆ど残ってはいません。

 

写真はグロットのラッテストーン、最近作られたものです。

ラッテストーンは家屋の柱、建物の土台、墓?宗教施設?

等など色々な説がありますが真意の程は定かではありません。

タガ王朝時代は9世紀頃に誕生したとされていますが、

古代チャモロ人は殆どがスペイン人により殺されてしまい

子孫がいないそうです。

なので語り継がれる事も無かったので謎だらけなのです。

 

グアムにはラッテストーン公園があり、古代の物が残っています。

テニアン島のラッテストーンは【タガ遺跡】と呼ばれテニアン港の近くにあります。

テニアンの観光コースに入っていますので山奥まで行かなくても見る事が可能です。

又、テニアン島ではタガ王朝時代の名残りがいくつかあります。

タガビーチと呼ばれる場所もそのひとつでタガ王の専用プライベートビーチだったとか。

ロタ島には空港から少し入った場所にタガ遺跡切り出し岩と呼ばれる場所もあります。

タガ遺跡!【ラッテストーン】、、本当は何に使われていたのでしょうか、そしてどうやって運んできたのか! 謎です。ロマンです。

そしてこのラッテストーン、タガ遺跡から推定するとチャモロ人は紀元前1500年頃から

このマリアナ諸島に定住していたようです。

 

その頃の産業は農業と漁業です。

チャモロ人は農耕山地に家を持ち、カロリン人は海辺に住居を構えていたようです。

チャモロ人は農耕民族で、カロリン人は漁港民族だったと言う事ですね。

武器!

初代チャモロ人たちの武器はスリングストーン

(投げ石)や槍などです。

石や貝、骨などを削って作られたものです。

この道具もサイパン博物館に展示されています。

Sling stones】でインターネット検索をしても

沢山出てきて興味深いですよ。

 

【写真はサイパン博物館です】