ある日の夕方、シラミ取りで外に出て、展望台の岩に登ってみた。
ジャングルの下の芋畑に牛が5頭来ている。早速伝令を飛ばし
各地に連絡する。小銃は隣の洞窟の平沢上等兵が持っている、
各自ドンゴロスと言っていた麻袋とドスを持って現場に集合する。
牛に悟られない様静かにジャングル内で待つ、大曽根はバナナの葉2枚を
持ってきていた。
夕暮れになり牛の体が空に透して見える位置から狙い定めて1発放つ、
牛はモーと鳴いて倒れた、2発目でとどめをさす。
周囲の牛は慌てて逃げ出した。
銃を持っている隣の洞窟の平沢上等兵が射手だった。後は解体である。
農家出身の大曽根は解体が上手だった。
まず、ナイフで首から心臓を刺し血を抜く、腹側から片側の皮を剥ぐ、
バナナの葉を敷き牛をひっくり返す、そして反対側の皮を剥ぐ、
時々ヤスリでナイフを研ぐ、瞬く間に皮を剥いでしまい、
大きな牛肉の塊になった。
大曽根に解体の要領を教わりながら肉を切り取った、しかし彼は腹だけは
触らせてくれなかった、へたに切ると汚物が出て肉が食えなくなる
と言っていた。肉はまだ温かい、牛肉特有のなんとも言えない。
ただよだれが出てかぶり付きたくなる様な香りがあった。
彼が生肉の刺身がうまいぞと言うので一切れ食べてみたがとろりとして
美味しいものだった。
発見者、射殺者、手伝いの順に肉質の良い所から順に切り取り
ドンゴロスに詰めて持ち帰る、牛を1頭とると10~20人では
持ち帰れない量であった。
洞窟に帰り早速ビフテキにして食った、それも飯の変わりに食った。
そして当分は、芋は貴重品だから肉を食えと、毎日朝晩とも
肉ばかり食った。
南洋の島テニアン島の洞窟の中は非常に湿度が高く生肉の保存には
最も不適当な場所だった。
食えるだけ食ったが20キロ程の肉は殆ど減らない、3日目位までは
良かったがそれ以降は、腐敗の方向に向かって来た。
大事な食糧である、腐らせて捨ててしまう訳にもいかない。
茹でて熱を通し、天日で乾かし乾燥肉にする事に考えおよび、
乾燥肉の製造に取り掛かった。
丁度その頃は闇夜で、外の食糧探しが出来ないので都合の良い
仕事になった。先ず肉を厚く切って釜で煮る、初めに少量の水を
入れただけで、後々は肉から出る水分で煮えていった。
それを明け方早くジャングルの日当たりが良く雨が当たらない岩下で、
敵の目に止まらない所を探して並べておく、数日天日に干し、
これで簡単に乾燥肉が出来上がる、干し肉は非常に役にだち、
それで我々は生命を保つ事が出来た。
殺した牛は大きな雄牛だった。
金玉が美味しく勢力がついて元気になると聞いて1つ貰い、
ぶら下げて持って帰ったが片金でも金は相当に重たかった。
洞窟で輪切りにして焼いて食べてみた、幾ら噛んでもゴムを
噛んでいる様に跳ね返り、煮ても同じで噛み切ることが出来ず
とうとう諦めて捨ててしまった。
陰茎も役に立つという。ぶらさげて乾燥させると長く伸びて、
丈夫で立派な高級ステッキが出来る。との話を聞いたが作るまでには
至らなかった。
バナナやパパイヤ等の果実は若いうちに取って食糧にしてしまうので、
普通に賞味する果物のバナナやパパイヤを口にする事は殆ど無かった。
キュウリは時折葉の下に隠れた大きな物を見つけ出して食べる事があった。
敗残兵も生存競争が激しく、一生懸命動き回らねば食糧を手にすることは
出来なかった。
その食糧難の時代に鹿児島出身の私と宮崎出身の稲尾と中玉利の
3人組に1つの良い事があった。ヘチマである。
他県の人にはヘチマを食う習慣が無いと見えて、ヘチマがあっても
取る者はいなかった、我々三人だけで独占して食べることが出来た。
大きくなったものはタワシになって食べられないが、若いものは
幾分土臭かったが、それも郷里の味で我々には立派な良い野菜だった。
煙草にも困り薩摩芋の葉を乾かして吸っていたが、民間人が植えた
煙草畑を見付け、葉を洞窟で乾かして刻んだり巻いたりして吸った。
米軍の野外映画場に行ってモク拾いをした事もあった。
土のうを積み重ねた席の間を腹這って進む。洋モクが幾らでもある、
片っ端から拾って行く、空き箱もあるが中には1~2本残ったものもあった。
ある日の夕方、外に出て煙草を吸っていたら、私の左耳から
煙が出ているとの事だった。海岸から上がったジャングルの洞窟に
一緒にいた稲尾も中玉利も同じだった。
洞窟で受けた手榴弾で、鼓膜が破れ耳管を通って煙が出たのだった。
鼻を摘(つま)んで息を出すとほわほわと煙が出た、強く出すと
耳の奥がしみるように痛かった。
鼓膜が破れ暫くは音の方向が分からず閉口したが、何時しかその不便も
感じなくなり、後日、耳から大きな乾いた血の塊が出て来て
その後なんともなくなった
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