戦陣の日々 金谷安夫著 

パート4  海岸からの脱出 ~

 

海岸からの脱出
 
付近を見ると岩の割れ目があり、台上まで続いている様子だ。
薄明りで割れ目が確認出来た。ロープは下がっていないが
この割れ目ならば台上まで登れそうである。
 
平地を歩くのが精一杯の体に鞭打ち、割れ目の
ロッククライミングに挑戦した。
テニアンの岩は風化され表面が凸凹している、
足を掛け手で体を引っぱり上げ割れ目の両側に
足を掛けて登った。
 
 10メートル程登った岩の凹みに南洋興発会社の
若者がしゃがみ込んで呻いている、良く聞くとマッチを
貸してくれと言っている。
 
負傷して傷にはうじがわき助かりそうにない様子であった。
ダイナマイトを持っているので自決したい様子であるが
我々もマッチは持たない。
 『死んではいけない、必ず連合艦隊がくる、このテニアンが
 取られることは日本が負けることになる、必ず援軍が来るので
 それまで頑張れよ』と励まして別れた。
 
そして再び割れ目をよじ登った。
弱った体でもいざと言うときは割合力が出るものである、
 1520メートル登ったであろあか、急に明るくなり
頭が台上に出た。
 
台上は草原でジャングルまで100メートル位で上り坂になっている。
海岸にいるとき聞いた話では、台上に出ると殆どの者が
狙い撃ちされるとの事だったので、頭を引っ込め恐る恐る
首を出して付近を見渡したところ、敵のいる様子はない。
カヤの叢(むら)がった所に身を隠しながら1人ずつ進み
草原を突っ切りジャングルに飛び込んだ。
 
危ないと聞いていた断崖を4人共無事通過し、
ジャングルに辿り着くことが出来た。
 
ここは海岸の断崖から台上につながる斜面草原上部のジャングルである。
暫く様子を見たが敵の気配は全く無い、それでは進めと
ジャングル内を歩いた、民間人が避難していた跡が各所にある。
そして彼等が残していった食糧を捜し出した。
白米、麦、玄米などが岩影に隠してあり、また鍋釜もあった。
しかし水がない、炊く事が出来ないので、生米をかじった。
 
久し振りに物を噛み飲み込む事が出来た。
そこえ猛烈なスコールが来た、早速木の幹に縄を縛り付けた、
葉に落ちた水滴が枝を伝い幹を伝って流れてくる、
縄の端からは水道の栓を開けた様に勢い良く水が迸る、
タコの木は長い葉が集まってついていて水取りには良い木であった。
鍋に水をとり米を研ぎ岩陰で久し振りに飯を炊いた。
 
しかし、敵は見えないとは云え、テニアンは敵の島になっていたのだった。
島の南端のカロリナスのジャングルも、敵の真っただ中であり、
おまけに日中である。
そこえ煙を出したので、敵は驚き盛んに撃ってくる。
 
弾はジャングルの上を飛んで危険ではなかった。
煙が出ないよう注意しながら炊いたのだが、少しの煙が
敵に見付かったのである。敵は必ず掃討に来る筈である。
  
何時までも飯を炊いているわけにもいかない。
ある程度で火を踏み消し鍋を抱えて退避した。
  
岩場のジャングルの斜面に身一つやっとはいれる穴があった、
中に入ると穴は4メートルぐらいの深さで底は平らで畳2枚位い
 あるので4人が横になってゆっくり寝る事が出来る。
暫くここで様子を見ることにした。
  
落ち着いて、鍋を開けて見ると、水は引いているが
未だ出来ていない、暫くむらして食べてみたが
米と麦と玄米の混合物でお負けに半煮えであり、キミョウナ物だったが、
久し振りの飯であり、おかずは無かったが4人で舌鼓を打った。
  
最後に握り飯を食ったのはカロリナス台地で徳永と別れた時だった。
あれから9日間一握りの生米で過ごし、今漸く10日目で米の飯に
ありついたのであった。
  
半煮えだったが旨かった。腹が満ちると幾らか力が出てきた
様であった。食糧が手に入ったので将来に大な希望を感じ、
力の漲る思いだった。
  
そして、今までの疲れが出て4人ともぐっすり寝込んでしまった。
34
 

洞窟を襲われる

 

暫くたって、夢うつつの中で物音を感じ飛び起きた。
何か音が聞こえる。
 
コト・・コトと歩くとき石が動いてたてる音である。
 話し声も聞こえる英語の様だ。
先程の煙を見て掃討に来たのに違いない、
直ぐに岩の割れ目に潜り込み敵襲に身構えた。
間違いなく米兵の声である、段々大きくなり近づいて来るのがわかる、
穴の入り口付近でうろうろしているのが感じられた。
  岩の音がゴトゴトしている、そしてついに穴が見つかった。
 
米兵が『マニホールド』(洞窟)と叫ぶ、暫くして手榴弾を投げ込まれた。
 足音が幾つも幾つも遠のいていった。
それと同時に上の入り口の穴から手榴弾がコトコト音を立てて
落ちて来る、岩の割れ目に張り付いた我々は耳を塞ぎ目を指で押さえ
口を開けて爆発に備えた。
 
コトコトと落ちる音に合わせ1・2・3・4・・・と
 10数えたが爆発しない、不発弾だった。
暫くして又上で足音がコトコトいっていたが次の手榴弾が
穴の入り口で爆発した、穴の入り口1メートル程になり
穴の奥まで明るくなった。
 
暫く米兵の話し声が直ぐ近くで聞こえていた、
そして次の手榴弾を投げ込んできた。
今度はコトコトと落ちる音と共にシューシューと音をたてている。
  1・2・3と数える間もなくボカーンと見事に爆発してくれた、
中の人間はたまったものではなかった。
 
爆発を受けた側の体は痺れ、頭はガーンと鳴っている、
しかし感覚があるので生きている事は確かであった。
 1時間ばかりその儘岩の割れ目に張り付いていた。
米兵の声も聞こえなくなったので4人全員中央に集まった、
全員無事であった。
 
負傷した者は1人もいなかった、皆興奮から覚めやらず
ボーットしている。
私の頭は左半分がシーンとうなり、体の左側は痺れていた。
 
不発だった手榴弾が転がっていた。
TNT火薬を4つテープで縛り雷管をつけたものだった。
本当の手榴弾だったら破片で負傷し、若し運が悪ければ
死亡する者があったかもしれないと思うとゾットする。
襲われる前に掴まえていたヤシガニが釜の中でガサガサ音を立てている。
ヤシガニのことなど全く忘れていたが、釜の中に入れていたので
助かったのだった。
夕方になって飯を炊き、ヤシガニを煮て2度目の食事をした、
ヤシガニの尻のスープはとてもうまかった。
 
35

 

この穴も入り口が大きくなり過ぎ安全ではなくなった、
明日の昼は危険で使えない。
何処か安全な場所を捜さねばならない。
以前マルポの菊地さん宅に居た時退避していたジャングルに
行って見る事にした。
 
洞窟で一夜を過ごし、早朝各自荷物をを持って出発した。
岩場のジャングルの中は隠れ場所が多く、敵兵の声、足音、
器材の音等に気を付ければ敵の存在が分かる。
 
 早く発見すればその状況により対処することが出来るので、
ジヤングルの中は昼間行動しても安全だった。
 
昨日は敵に襲われたが、米の飯とヤシガニを食い、
洞窟で十分睡眠をとったので幾分足も動くようになった。
相当歩いたつもりだが未だ台上には出ていない。
この付近は相当敵兵が歩いたと見え各所に携行食糧の
缶詰のカンが放置されている。
彼等の食糧管理は大様(おおよう)(大雑把)
なものであるらしい、人員が5~6人の時も
10人の時も缶詰のフィールドレーションの主食
菓子各々一ケース(1ダース入り)を持って出るらしい、
食べ残した缶詰はそのまま残して帰っていた。
それが我々敗残兵には誠に有り難い食糧であった。 
主食の缶詰は肉とバレイショを煮たものか、肉と大豆を
煮込んだものが多かった、それに菓子缶がついていた。
菓子缶の中身はビスケット、飴玉、煙草、マッチ、チューインガム、
チョコレート、それに銀紙にくるまれたコーヒーと砂糖もついており、
お湯を沸かせばコーヒーまで飲める様になっていた。
銀紙でくるんだコーヒーは今で言うインスタントコーヒーで、
アメリカでは既に野戦用に用いられていた。
煙草もラッキーストライクやチェスターフィールド等だった。
チューインガムやチョコレート等は内地でもなかなか
口にしない物だった。
 

敵と遭遇

 

このジャングルはテニアン島の最南端で、大した攻撃も
受けていない様で、木々は青々と葉を付けており、
戦死者の遺体にも出遭わなかった。
 
民間人が避難していたらしくトタン板、鍋釜、蚊帳などが
各所に散乱していた。
食事を採るようになり体は順調に回復に向かっていたが、
昨日の襲撃で肉体的に体が疲れている。
早く台上に上がるため、疲れた体に鞭打って歩いた。
 
途中大きな岩に阻まれ迂回することしばし。そして、
割合大きな岩の下でしばらく休む。下の方で足音と話し声が聞こえ、
機材の音もしている、敵兵に間違いない。
岩影から覗くと230メートル下を敵兵が78人歩いている。
初めて真近に見る敵兵、顔は日に焼けて真っ赤であり、
銃を肩にかけ前の者を見失わないように歩いている様子だった。
 
手榴弾を投げて届きそうな距離であるが、
こちらには銃が無く人数も少ないので見送った。
残敵掃討に来たらしい、暫く様子を見て行動を開始する。
岩場のジャングルをよじ登って歩き夜になって台地の端に出た。
ここも岩場のジャングル地帯であった。
 
しばらく進むと岩がだんだん小さくなってきた、
大きな岩場を通過して台上の林に入ったらしい。
台上には敵がいるので声を出さない様、木の枝を踏み折って
大きな音を立てない様注意して歩いた。
 
突然足元に針金がまとわり付きガラガラと音がした。
急に敵兵の声がする、照明弾があがり辺りは昼のように
照らし出された、体を伏せて息を殺す。
 
敵兵ががやがや言っている。
 
やがて照明弾は消えた。4人共片方の耳をやられているので
方向の感覚が掴めない、敵はあっちだ、こっちだと言って
動きがとれない、1人ずつ頭をぐるりと一回転して敵の声の
もっとも大きい方を捜し当てた。
 
危うく敵の真ん中に飛び込む羽目になる所だった。
缶詰の缶に小石を入れ針金に通してジャングルに張り巡らし、
その真ん中で敵は悠々と寝ていたのだった。
 
彼等はそれで敵の接近を知り、我々はそれにつまずき、
彼等の居所を知る事が出来る。
敵は夜は決して追っては来ないので、敵味方お互いに安全を
保ち得るのである。
 
しかしそれにしても驚かされるものである。
そこを避け、しばらく進むとジャングルを抜け草地に出た。
草原は夜でも明るかった。
星は戦いを知らぬげに瞬いていた、そして夜は静まり返っていた。
 
マルポのジャングルに行く為、北極星を探しそれを頼りに歩く。
斗七星の傾きで時間が分かる。
 
   
途中道路に出た、破壊された民家のトタン板が風に鳴っている。
敵が潜んでいる恐れがあるので迂回して進む。
この台上では最後の決戦が行われた筈であるが
死体には殆ど遭遇しなかった。
 
しかし、爆弾の穴の回りには必ず1人の兵が斃れていた。
砂糖きび畑は焼かれ、幹だけが黒々と立っていた。
 
何時間歩いたか分からないが敵に遭遇する事もなく、
ついにカロリナス台地の北側のジャングルに到着した。
ジャングルの中では方角は分からないので、北極星を目指し
曲がらない様に注意して進んだ。
 
台地の平地のジャングルは南側と同じく大きな岩はなかった。
スコールが来た、それも戦いの跡を洗い流すかの様な大きな
スコールだった。瞬く間にずぶ濡れになる。
 
北緯15度、南洋といっても夜のスコールに濡れると寒い。
隠れる岩陰もなく、また着替えなどもちろん無い、食糧を濡らさぬよう
鍋や釜を被せてしゃがんで居るより仕方がなく、ただ、
ぶるぶる震えながら一夜を明かした。
 
36

カロリナス台上北部

 

朝靄の中を暫く進んで断崖の上に出た、カロリナス台上北部である。
ラソ高地から港にかけての台地が見渡せた。
2飛行場があったラソ高地にはカマボコ形の兵舎がずらりと
建ち並んでいる、敵のやり方は早いと噂に聞いていたが、
占領されてから約二週間かくも変わるものかと驚くばかりであった。
また建設作業か、飛行作業か騒音も聞こえている。
東側のサバネタバスの台地は、我々が最後の飯炊きに行った所だったが
そこには幕舎もカマボコ形の兵舎も建っていなかった。
 
一方マルポ側の我々が一時退避していたジャングルは、様相が
一変している。
殆どの木は、枝葉を吹き飛ばされ幹だけになっている。
飛ばされた枝葉は岩肌を覆っていて、物凄くやられたのに驚いた。
南側のジャングルと違いこちら側は、目茶々々にやられていた。
敵の様子が分からないので何時までも呆然としているわけにもいかない、
様子が分かるまで暫くもぐり込む穴を探すために下に降りた。
 
我々が立っていた岩の下が、ひさしの様になっていて雨も当たっていない、
民間人が生活していた跡で、色々な生活必需品が散乱している。
良く見ると小さな岩穴があり奥は畳1枚半程度の平地がある、
そこへ4人でもぐり込み入り口を石で塞ぎ、その中で日中を過ごすことに
して、長々と足を伸ばして寝た。
 
うとうとしながら連合艦隊が来た夢を見ていた。
それでも耳だけはいつも緊張していて、寝ていても少しの音も
聞き漏らさなかった。
何だか音が聞こえる様だ、4人つつき合って緊張する。
確かに人が歩く足音である、話し声も聞こえる、日本語ではない英語だ、
足音と話し声が段々大きくなってくる。
 
遂に洞窟に敵が来た。
敵兵は民間人が残していった器物を引掻き回している様子である。
そして、入り口を塞いでいた石で、蚊帳を押さえていたのが悪かった、
蚊帳を引っ張る度に入り口の石がごとごと動く。
これで終わりかと息を殺していた。
 
 
37

 

息を殺していると次は大きく吐き出さねばならない、すると、
隣の兵がつついてくる、その彼もハーッと大きく息をする。
ヤンキーはこら辺りを引っ掻き回し土産物探しをしている様だった。
暫くしてヤンキー共は立ち去って行った。
  
夕方になり穴から出て付近の様子を伺っていると、下の方から
コトコトと小さな音が聞こえてくる。
向こうからこちらに気付いたらしく『必勝、必勝』と声を殺して
合言葉を掛けてきた。『信念』と返すとパンツ一枚の日本人が出て来た。
 
海軍の兵隊だった。南海岸からを出て以来、初めて会う日本人、
お互いに無事を喜びあった。
彼は321空鵄部隊大曽根周二上等整備兵で仲間の者と一緒に
この先の洞窟に居るというので案内して貰った。
一人は大曽根と同じ鵄部隊の桜井好平二等機関兵曹と
海軍の設営隊の班長の長沢海軍(皆がそう呼んでいた)と
陸軍の平沢上等兵の4人であった。
 
その隣に大きな穴があるのでそこに入るよう勧められ、
先程襲われた事でもありそこへ引っ越した。
 
岩を攀登(よじのぼ)ると途中に人1人はいれる入り口があり、
奥は相当に広い。
鐘乳洞の洞窟で、入り口付近には炊事用のカマドがありその上側にも
平地がある。
水が滴り落ちる所があり下には水受けの鍋が満水になっていた。
民間人が避難していた跡だった。
ここなら、たとえヤンキーが入って来ても容易に見付かる心配は
ない様であった。
 
この洞窟に約1年間世話になる事など当時は考えもしなかった、そして、
これから長い長いゲリラという敗残兵の生活が始まったのである。
 
正規の軍隊はなくなり、数名ずつが集まったゲリラになった。
いや、ゲリラと云うより敗残兵の小集団になってしまったのである。
 
38 

惨敗兵生活

 

テニアン島が占領された当初の8月は雨季で毎日スコールがあり、
洞窟内には滴り落ちる水源もあった。
又ジャングル中に散乱している鍋釜、缶詰めの缶、鉄兜等あらゆる器に
雨水が溜まっており、その水を集めて使用したので不自由はなかった。
 
とくに民間人がジャングルに持ち込んでいた波形のトタン板の下に
石油缶を置いておくと何時も水が1杯で困ることはなかった。
 
しかし、ヤンキーがそれに気付いたのか、蚊の発生を押さえる為か、
水入れに成りそうな物にはすべて穴を明けて回っていた。
トタン板にも明けられたが位置を変えるとまだ使用出来た、
また穴開きの石油缶も斜めにして使用した。
それでも段々使える物が少なくなり、ジャングル内は水集めが
困難になってきた。
 
ジャングルを下り平地に出ると爆弾の穴に水が満々と溜まっていたので
 十分間に合った。
また、民間人の家に必ずあった天水溜めのタンクは材木、
トタン板等が落ち込みガマ蛙なども住み着きあまり良い水ではなかったが
予備の水になった。
 
時と共にジャングルでの水取りが次第に困難になってきた。
年が代わり1月になると乾燥期にはいる。
毎日必ずあったスコールの数が少なくなり、洞窟内の滴り落ちる水も
減少してきた。爆弾の穴の水も汲みに行く度に水位がさがり
やがて使用出来なくなってしまった。
 
又ヤンキーに石油をぶち込まれた穴もあった、その時は、
水筒を水の中につけ蓋を開けると真水が取れる事を知った。
 
天水タンクの水は腐敗が進んでいたが乾きには代えられず
ごみをよけて啜った、それもヤンキーに石油をぶち込まれ
に使用出来なくなった。
ある時はドラム缶の縁に溜まった水も飲んだ。
 
水の代わりに砂糖黍を随分かじったものだった。
水不足で口がカラカラに渇いた時の砂糖黍はよく渇きを癒してくれた。
食糧取りの帰りに夜景が良く見える丘の畑の黍をかじった。
2基地(チューロ)からBー29が飛び立つのを眺めながら
黍をかじっていた。
  
1分間に3機飛び立ち、合計100から120機が飛び立っていった。
いずれも日本本土爆撃に行くのだろう。
 
皮を剥(む)くナイフは、ごぼう剣を短く切り、砥石でしっかり研いで
柄と鞘を作った。そのナイフはよく切れてとても便利が良いので
いつも腰にさして歩いていた。
 
黍を2~3本もしゃぶると喉の渇きはとまったが、甘さが残った。
洞窟の上のジャングルに行くと夏みかんの木があり、
 落ちた実を拾って食べた。
目を開けられない程酸っぱかったが、黍の甘さが幾らか落ち着いた。
しかしそこに大敵が待っていた。蜂である。
裸に近い格好だったので体じゅう刺された。内地の足長蜂より
小さく毒性も少なかったが、痛かった。
テニアンには猛獣が全くいずへびもいなかったので、
蜂が一番の大敵だった。ほかに長さ1メートル程のトカゲがいたが
人には全然危害は加えなかった。
側に近かずいていっても全然動こうとしないのが、掴まえようとして
一メートル程に近付くと、急にビックリする速さで走りだして逃げ、
掴まえることは出来なかった。
ある日、食糧探しに出た時のことである。少し遠出をしたので、
持ってきた水筒の水を飲み干して喉が渇いてきた。
夜とはいえ南洋である。水が飲みたいが付近には水は全くなかった、
砂糖黍畑もない。見渡せば草むらの先に敵に焼かれた砂糖黍畑が
夜目にも黒々と見えた。
水気は無かろうと思いながらも、1本切って皮を剥きしゃぶってみた。
ところが水分は十分ある、しかし少し酸っぱかったが、
カラカラに渇いた喉を潤すには十分であった。
2本目をしゃぶっている時体が少し上気しているのに気が付いた。
酒に酔ったようで脈も普段よりだいぶん早い。
側にいた稲尾も中玉利も酔ったといっている。 

 

焼かれたためか糖分が発酵してアルコールに変わり、砂糖黍ワインが
出来ていたのである。34本もしゃぶると全く良い気分になった。
こんな事は初めてであった。
砂糖黍ワインはヤンキーが敗残兵に残してくれた最大の贈物であった。
 
ワインパーティーは最高だったがその後が大変だった。
口も手も体も真っ黒であるが水がないので汗で洗い流すより仕方なかった。
しかし毎日パーティーで酔いしれる訳にもいかなかった。
今は食糧探しと水汲みが我々の最大の使命なのである。
 
水捜しでマルポの水源地のジャングルの裾を歩いていた時、
ジャーという流水の音を聞いた。
 側にいってみるとそれはエタニットパイプ製の20センチ程の
水道管の継ぎ手からの水漏れであった。
 
水溜まりにはガマ蛙が集まり楽しそうに歌っていた。
れ幸いと持ってきていた携行缶に汲んで帰った。
月夜のうちに闇夜の15日間の水を溜めておかねばならないからだ。
闇夜の晩は鼻をつまれても分からない暗さで外歩きは全く
出来なかったからだ。翌日はスパナーを持って行き、ボルトを緩めて
ジャーッと大きく漏らして汲んで帰った。
 
それを知った敗残兵仲間が大勢水汲みに行き、もう少し沢山出る様にと
つつき回しているうちに大噴出となり手がつかなくなった。
これを発見した米軍はそこで待ち伏せをし、付近一帯が掃討されるなど
一時は物騒になった事もあった。
39

 

ジャングルの洞窟で生活をしている敗残兵も火が無ければ、
文化生活は出来ない。
灯火用の灯がいる、炊事の火がいる。
 
昼間寝て夜活動する夜行性の山賊は、洞窟内の作業にどうしても
灯火がいる。ランプは民間人が残していった物を拾ってきて使用した。
 また、皿にラードを入れ布のジミを作って使った事もあった。
種油その他の食用油もあったが、殆ど灯火用として使用し食糧にするなど
余裕は全くなかった。
 
ランプに火を付けるにはマッチは欠かせない物だった、
しかしそのマッチは殆ど手に入らなかった。
また洞窟の中は湿度が非常に高く、マッチの頭が直ぐに駄目になった。
油紙に包み体温で温め湿気を防いだが長くは持てなかった。
頼みのマッチの火が付かず、住吉神社まで行ってマッチを貰ってくるまで、
洞窟内は真っ暗で炊事も何も出来なかった。
 
木炭が手に入った時は、炊事の後で木炭に火を付け、
灰の中に埋めておくと良い火種になった。
埋め火から紙に火を移すと炎がでる、その炎でランプに
灯を付けるのである。
 
双眼鏡のレンズで太陽光を集め紙に火を付ける事も出来るが、
レンズが手に入らなかった。ビール瓶の底で試してみたが駄目だった。
 
かろうじて付けたランプの灯に、大きな蠅が飛び付き、
灯を消してしまい、閉口する事も多かった。
洞窟の中では竃の火は寝ている時も外出のときも「おき」の火を
絶やす事は出来ない重要な火種であった。
40 

食料

 

米と麦だけが食糧ではなかった、敗残兵にとって米の飯は
殆ど口にする事が出来ない貴重な食糧だった。
 
カロリナスの洞窟に来た当時だった、住吉神社から帰る途中に
大きな岩の下の洞窟に大きな土嚢(どのう)で出来た陣地があった。
その土嚢は全部米の俵で相当数の米俵があった。
 
これで当分米の心配はないと、ひと安心だった。
当日は入れ物を持っていなかったので、取り敢えず各自ポケットに
一杯ずつ持って帰った。その日は米の飯を炊き銀飯を腹一杯食べた。
翌日入れ物の袋のドンゴロスを持って米を取りに行った。
着いてみて驚いた、洞窟の口が何だかすかすかしている。
昨日の洞窟とは違う様だ、近ずいて良く見ると、米俵は全部
焼き尽くされている。ヤンキーの仕業であった。
食糧が無くなり将来に暗い影が襲ってきた。
 
ジャングル地帯の洞窟に民間人が残した物が少量見つかる程度で
この後は穀物が手に入ることは殆ど無くなった。
米は連合艦隊が来た時にと、とっておき、不断は薩摩芋を食う事にした。
薩摩芋は民間人が植えていたもので、戦車のキャタピラーに轢かれても
逞しいその生命力は、良く太った芋を沢山つけていてくれた。
 
しかし、その芋も近くの畑は直ぐに掘り取ってしまい、
 段々遠くに行かねばならなくなった。
そして、今まで民間人が飼っていた牛や豚が、野牛や野豚になり、
群れを作って畑を荒らし始めた。豚が10頭も来ると、
 1つの畑は1日で丸裸に掘り返されてしまった。
我々は豚の食い残しを漁(あさ)って食う始末になった。
 
芋だけでは不足するので混ぜるものが必要になり、デンデンムシを
食べることにした。
テニアンのデンデンムシは殻が長く、大きなものは
長さ10センチ以上のものもあり、スコールの後などは
無数に群がって出ていた。
食うつもりで大きめのもの10程を鍋に入れて煮てみたが
汁はどろっと白く濁り、角と目の棒がこちらを睨んでいて
どうしても食う気にならず、そのまま捨ててしまった。
 
テニアン島が占領されて約一月後、住吉神社には付近の敗残兵が
毎夜集まり情報交換の場所となっていた。
そこでデンデンムシの調理法を聞いた。
先ず、デンデンムシを石で叩いて潰す、わたを取りのぞき、
硬いところだけをカンに取る、カンに或る程度溜まったら手を突っ込んで
勢い良く掻き混ぜるとデンデンムシのよだれが泡になり、
その泡の中からデンデンムシがぽろぽろと分離されて出てくる、
それを別のカンに集めてまた掻き混ぜると、よだれが分離する。
それを煮て、醤油または塩で味付けすると結構食える様になる。
天日で乾かしておけば、保存食にもなる。
 
 1つ貰って食べたがこりこりしてうまかった。
生まれて初めてテニアンのエスカルゴ料理を食った。
故郷の母もこんなフランス料理は知らなかった事だろう。
 
何回かデンデンムシを取ってきて食べた、乾燥しておけば
おやつ代わりになりコリコリとかじるのは最高だった。
しかし塩や醤油がいるので、我々は芋と一緒に煮込んで食べた。
 
これから後、しばらくは台上に上がりデンデンムシを取るのが
日課になった。
敗残兵の1日の日課は、夕方のシラミ取りから始まる。
洞窟に差し込む明りで夕方の時刻を知る。
恐るおそる外部の様子を伺い異常なければ、外に出て穴の周辺で
シラミを取る、上着の裏の縫い目に沿って丹念に潰していく、
何処の縫い目もシラミが隙間なくびっしりと隠れている、
それを片っ端から退治していく、裏がわを全部取り終わって
ひっくり返して表側を取る、表側を取っていると直ぐ裏側に回り
なかなか大変だ。
手が赤くなるまで取っても翌日はそれ以上に増えに増えていて
シラミには閉口だった。
41 

 

シラミとりが終わってからデンデンムシ取りに行く。
スコールの後は直ぐに缶詰めの缶で敗残兵仲間でロッキンカンと
言っていた直径、深さともに15センチ程の缶に半分程とれば
 1回分に十分だった。
 
半分服を着たお骨や、昨日出したばかりの糞にも集まっていたが、
それだけは取る気になれなかった。
スコールが無かった時や、乾燥期になってからは、湿気のある所や
岩陰に隠れていて探すのが大変になった。
 
芋が豚に食われて少なくなり、代用品を探さねばならなくなった。
住吉神社の情報で、バナナの幹の芯が食える、
パパイヤの根の皮をむくと中は食べられると聞いて、
民家の跡に行きバナナの幹を倒しナイフで切り目を入れて
皮を剥ぐのが大変だった、20センチ程の幹がなかなか小さくならない、
思案したあげく幹を30センチ程に切りそれを縦に切ってむくと
割合楽だった。
5センチ程にしてかじって見が、味もそっけも無い物だった。
が洞窟に持ち帰って煮てみたが労した程にはうまい物でなかった。 
 
パパイヤの根が食べられると聞いて試してみたが、根を掘り上げるのが
大変だった。土を掘ってみるが回りの草木の根が絡み合って
全くお手上げの状態だった、幹から大きな根が56本出ている、
棒でつつき回し、ナイフを使って漸く掘り出した。
持ち帰って千切りにして芋と炊いてみた、白粉(おしろ)の様な香りは
あったが大根の堅いもの程度で食べられ、バナナの芯よりはましだった。
しかし掘るのが大変だった。
一晩掛かって2日分にもならなかった。翌日、昨日堀った場所に行って、
幹を割ってみた、中は根と同じ様なもので、食えると思われたので、
適当な長さに切って洞窟に持ち帰り千切にして芋と煮て食べた。
根と同じで白粉(おしろ)いの匂いも我慢できた。
それ以降、芋とデンデンムシとパパイヤの幹の千切が主食になった。
  
夕方の洞窟内ではパパイヤの幹の千切りが始まっている。
まずパパイヤの幹を20センチ程の長さに切る、
拾って来た立ち木切り用の大きな鋸が非常に良く役に立った。
斧で10ミリ程の厚さの皮を剥ぎとり千切りにする。
千切りも初めは旨く出来なかったが、馴れるに従い、コトコトと音も
軽やかに上手に出来る様になった。
 
先ず釜の底に泡を除いたデンデンムシを入れ、その上にパパイヤの
千切りを入れ、湯のみ1杯の水を入れて火をつける、
次に薩摩芋を角に刻んで釜一杯にして、蓋をして煮る。
頃合を見て底から掻き混ぜて出来上がりとなる。
米を少し入れる事もあったが、米だけは保存が利き、また、
艦隊が来た時に底力を出す為の食糧として取って置くことにして、
不断は殆ど食べなかった。
 
飯が出来たら敗残兵生活で最も楽しい食事である、しかし、それも
生きて行く為のぎりぎりの最低限の食事だった。
飯が終わってその後は住吉神社に行く、そこは敗残兵の溜まり場で
各地から敗残兵が集まってくる。
ヤンキーは居ないし皆『必勝』『必勝』と大きな声をあげてやって来る。
その頃は掛け言葉の必勝が挨拶がわりになっていた。
『必勝』と言われ『信念』と返す。情報交換の場であり、
食糧探しに行く時の集合場所にもなった。
そこで交わされる情報は主として、敵状と食糧関係の事だった。
何処では敵の『待ち伏せ』に会い誰が死んだ、どこには未だ手つかずの
芋畑がある、誰々は敵の缶詰めをかっぱらって来た、などの話だった。
住吉神社の拝殿は破壊されていたが本殿は残り瓦もかぶっていた、
スコールの時は軒下で雨宿りをした。
42

野牛を獲る

 

ある日の夕方、シラミ取りで外に出て、展望台の岩に登ってみた。
ジャングルの下の芋畑に牛が5頭来ている。早速伝令を飛ば
各地に連絡する。小銃は隣の洞窟の平沢上等兵が持っている、
各自ドンゴロスと言っていた麻袋とドスを持って現場に集合する。
牛に悟られない様静かにジャングル内で待つ、大曽根はバナナの葉2枚を
持ってきていた。
 
夕暮れになり牛の体が空に透して見える位置から狙い定めて1発放つ、
牛はモーと鳴いて倒れた、2発目でとどめをさす。
周囲の牛は慌てて逃げ出した。
銃を持っている隣の洞窟の平沢上等兵が射手だった。後は解体である。
農家出身の大曽根は解体が上手だった。
まず、ナイフで首から心臓を刺し血を抜く、腹側から片側の皮を剥ぐ、
バナナの葉を敷き牛をひっくり返す、そして反対側の皮を剥ぐ、
時々ヤスリでナイフを研ぐ、瞬く間に皮を剥いでしまい、
大きな牛肉の塊になった。
 
大曽根に解体の要領を教わりながら肉を切り取った、しかし彼は腹だけは
触らせてくれなかった、へたに切ると汚物が出て肉が食えなくなる
と言っていた。肉はまだ温かい、牛肉特有のなんとも言えない。
ただよだれが出てかぶり付きたくなる様な香りがあった。
 
彼が生肉の刺身がうまいぞと言うので一切れ食べてみたがとろりとして
美味しいものだった。
 
発見者、射殺者、手伝いの順に肉質の良い所から順に切り取り
ドンゴロスに詰めて持ち帰る、牛を1頭とると1020人では
 持ち帰れない量であった。
 
洞窟に帰り早速ビフテキにして食った、それも飯の変わりに食った。
そして当分は、芋は貴重品だから肉を食えと、毎日朝晩とも
肉ばかり食った。
 
南洋の島テニアン島の洞窟の中は非常に湿度が高く生肉の保存には
最も不適当な場所だった。
食えるだけ食ったが20キロ程の肉は殆ど減らない、3日目位までは
良かったがそれ以降は、腐敗の方向に向かって来た。
 
大事な食糧である、腐らせて捨ててしまう訳にもいかない。
茹でて熱を通し、天日で乾かし乾燥肉にする事に考えおよび、
乾燥肉の製造に取り掛かった。
 
丁度その頃は闇夜で、外の食糧探しが出来ないので都合の良い
仕事になった。先ず肉を厚く切って釜で煮る、初めに少量の水を
入れただけで、後々は肉から出る水分で煮えていった。
それを明け方早くジャングルの日当たりが良く雨が当たらない岩下で、
敵の目に止まらない所を探して並べておく、数日天日に干し、
これで簡単に乾燥肉が出来上がる、干し肉は非常に役にだち、
それで我々は生命を保つ事が出来た。
 
殺した牛は大きな雄牛だった。
金玉が美味しく勢力がついて元気になると聞いて1つ貰い、
ぶら下げて持って帰ったが片金でも金は相当に重たかった。
 
洞窟で輪切りにして焼いて食べてみた、幾ら噛んでもゴムを
噛んでいる様に跳ね返り、煮ても同じで噛み切ることが出来ず
とうとう諦めて捨ててしまった。
 
陰茎も役に立つという。ぶらさげて乾燥させると長く伸びて、
丈夫で立派な高級ステッキが出来る。との話を聞いたが作るまでには
至らなかった。
 
バナナやパパイヤ等の果実は若いうちに取って食糧にしてしまうので、
普通に賞味する果物のバナナやパパイヤを口にする事は殆ど無かった。
キュウリは時折葉の下に隠れた大きな物を見つけ出して食べる事があった。
敗残兵も生存競争が激しく、一生懸命動き回らねば食糧を手にすることは
出来なかった。
 
その食糧難の時代に鹿児島出身の私と宮崎出身の稲尾と中玉利の
 3組に1つの良い事があった。ヘチマである。
他県の人にはヘチマを食う習慣が無いと見えて、ヘチマがあっても
取る者はいなかった、我々三人だけで独占して食べることが出来た。
大きくなったものはタワシになって食べられないが、若いものは 
幾分土臭かったが、それも郷里の味で我々には立派な良い野菜だった。
 
煙草にも困り薩摩芋の葉を乾かして吸っていたが、民間人が植えた
煙草畑を見付け、葉を洞窟で乾かして刻んだり巻いたりして吸った。
米軍の野外映画場に行ってモク拾いをした事もあった。
土のうを積み重ねた席の間を腹這って進む。洋モクが幾らでもある、
片っ端から拾って行く、空き箱もあるが中には12本残ったものもあった。
 
ある日の夕方、外に出て煙草を吸っていたら、私の左耳から
煙が出ているとの事だった。海岸から上がったジャングルの洞窟
一緒にいた稲尾も中玉利も同じだった。
洞窟で受けた手榴弾で、鼓膜が破れ耳管を通って煙が出たのだった。
鼻を摘(つま)んで息を出すとほわほわと煙が出た、強く出すと
耳の奥がしみるように痛かった。
鼓膜が破れ暫くは音の方向が分からず閉口したが、何時しかその不便も
感じなくなり、後日、耳から大きな乾いた血の塊が出て来て
その後なんともなくなった
43

友軍機来る

 

10月の末頃だった。夕方、アメリカ軍の空襲警報が鳴り出した、
「さあ、友軍機がくるぞ」と我々ゲリラ一同張り切った。
敵陣は総ての作業を打ち切り、空襲に備え待機しているのであろうか、
全く静かになった。
 
今までに、こんなに静かになった事はなかった。
 113日の明治節を目掛けての奪回の為の偵察に来たんだ、
友軍機よ早く来てくれ、明日は連合艦隊も来てくれと小躍りして喜んだ。
沖の艦隊が砲火を上げ始めた。
島内の高射砲も一斉に撃ちだした。友軍機はまだ見えない、
高射砲の弾が上空でピカ、ピカ、ピカと炸裂しだした、
その中にゴマ粒程の黒い点の友軍機が見える。
少し離れた空にも高射砲の炸裂光が見え、その中に1機の友軍機が見える。
友軍機は合計3機であった。当るなよ、当るなよと手に汗を握る。
 
カーヒーの飛行場で大爆発が起こった、爆弾が当ったのだ、
火災になり黒煙を上げて燃えだした。やった、やったと声援を送る。
3機とも爆弾を投下しカーヒーの飛行場に火災を発生させた。
 
軍艦からの砲火と陸上の砲火は一斉に3機の友軍機目掛けて、
打ち上げ花火の様に吹き上がっていく。当るなよ、もっと高度をとれと
声援を送る。始めて見る敵の対空砲火は、物凄い量であった。
日本の花火大会どころではなかった。長さ20キロに足りない
テニアン島が花火に包まれた様だった。
ポンポン砲の砲火は天に火の粉を吹き上げている様だった。
高射砲の弾は友軍機の回りにピカ、ピカと炸裂している。
 
暫くたって、友軍機は三個の爆弾を投下し大戦果をおさめて、
東の空に消えていった。
あとには高射砲彈の爆煙が大きな3の黒雲になって
夕暮れのテニアン島の空に残った。
高射砲の弾が当らずによかった、友軍機よ良く頑張ってくれた、
明日は連合艦隊をつれて来てくれ。
と何時までも何時までも東の空に消える友軍機を見送った。
その頃敵は、もう空襲は終わったと言わんばかりに、こうこうと
明りをつけ何時もの状態に戻っていた。 

塵捨て場の火

 

飛行場の火は直ぐ消し止められていたが、一か所だけ
三日三晩燃え続けている所があった。大戦果だったんだな!
と感激していたら、住吉神社で情報が入った、燃え続けているのは
敵の塵捨て場の火で、我が軍の大戦果ではなく残念だったが、
燃え残りに缶詰などが有るという。
それでは行ってみようと、56人で出発した。
 
44

 

山の崖の斜面の上からトラックで捨てられた塵が4ヶ所あり、
その内の2つが交替で燃やされていた。
燃えていていない方を掻き回してみた、色々な物が捨てられている、
日本のごみ溜めとは全く趣が違う。みな新品ばかりである。
物量の違いをまざまざと見せ付けられた格好だった。
 
塵捨て場が発見されてからは、塵あさりの日が多くなった。
塵捨て場に行けば大抵の物は手に入った。
 
拾ったもので有り難かったのは、服と靴だった。
日本軍に支給された被服や靴と地下足袋は、洞窟生活を
するようになってから、洞内の湿気で瞬く間に傷んでしまい、
履物には非常に困っていた。
ある時は困り果てて、仏様のを脱がして履いた事もあったが、
 地下足袋は布が腐っていて30分も歩けなかった。
そして又臭くて臭くて洗っても洗っても足の臭いは取れなかった。
 
ヤンキーの靴は非常に大きかったが、地下足袋の底を紐で
足に縛り付けて歩くのよりはましだった。服も同様あった、
湿気で傷みが早く直ぐボロボロになる。
ヤンキーの服には香水の匂いのするものも有った。
今で言うオーデコロンか。
 
塵捨て場の作業には日本人抑留者が使われていたらしかった。
塵捨て場の崖の上の休憩用の小屋に、日本兵に合う寸法の靴が
いてあり頂いて帰ったこともあった。
抑留民が兵隊の事を知ってしてくれた事と感謝している。
 
拾った物の中には缶詰めも多かった、カロリナス南側の
ジャングルで敵が残して行った缶詰めと同じフィールドレーションや
 コンビーフの大きな缶詰の全く傷んでいない物もあった。
煙草やマッチも手に入る様になった。
 
暫くはそこからの品物で生活していたが、敵が気付き、
待ち伏せするようになり閉口した。
 
我々は洞窟を出て山を下り、ソンソンの港に向かう幹線道路を横切り、
暫く歩いて山に上る小道の横の民家の跡を通り、塵捨て場にかよっていた。
民家の跡から小道を右に行くと2~300メートルで幹線道路に出る。
その交差点に敵が機関銃を構えて待っている様子だった。
民家の跡に着くと必ず撃たれる。コンクリートの基礎の陰に伏せる、
弾はピュッピュッピュッと頭の上をかすめていく、すきを見て走る。
何回か繰り返すうちに、投光器で照らし始めた。
また、マイクロホンが仕掛けてあるらしく、幾ら静かに歩いても、
直ちに照らし出される様になった。
その内に様子が分かり、我々も要領良くなった。
まず23人が基礎の陰に飛び込む、するとすかさずライトがつき
光茫が頭上を走る、続いて機関銃の発射となる、弾は頭上を飛んで行く、
時折基礎のコンクリートに当りピユーンと跳ね返っていく。
暫く続くが止んだすきに走りだし、次の者が走り込んできて伏せる、
撃って来る。夜はヤンキーが動く事は絶対と言っていい程無かったので、
安心して同じ事を繰り返していた。
帰りは何事もなかった。引き上げたのか、それともマイクのスイッチを
切って寝ていたのであろうか。

DDTの缶

 

収穫物には珍しい物が多く、洞窟で開いて見るのが楽しみだった。
ある日、大きな蓋付の缶で粉の入った缶を拾った。
中の粉をなめて見たが今までなめた事のない味と匂いであった。
水で練ってダンゴにして、煮たり焼いたりしてみたがどうしても
食べられる物ではなかった。
 食糧品とは掛け離れた匂いと味の代物だった。缶をよく見ると
DDTと書いてあり「蚊とか蠅とか食物から遠ざけて保管しろ」
との字がかろうじて読み取れた。
食えない事が分かり塵捨て場に捨てた。
お負けにその缶は3個も持って来ていたのでがっかりだった。
 
ところが、今まで我々の塵捨て場は、蠅が湧き真っ黒く
たかっていたのが1匹もいなくなっていた。
敗残兵に付き物だったシラミ退治に有効な事も知らなかった。
もし知っていればシラミ退治の妙薬として敗残兵仲間で食料との
交換が出来たかもしれない。
商売繁昌で財産が残ったかもしれない等とんでもない事まで
考えられる。今考えると全くの笑い話であるが、当時はその様な事は
全然知らず、ただ煮ても焼いても食えない代物である事だけは
間違いなかった。
 
住吉神社の会合で、ヤンキーの石鹸は、泡が立たず白くなって
只ぬるぬるするだけで香りも悪く品質が良くないという兵隊がいた。
れどれと良く見るとそれは、チーズだった。
当時チーズ・ベーコン・バター・コンビーフ等の横文字の食べ物は
我々には殆ど馴染みのない食べ物だったのでこれらを知らない兵隊は
多かったようである。
 
45

山 賊

 

昭和19年も終りに近くなった12月頃からだった、住吉神社の山麓に
バラ線が張られているとの情報がはいった。
 
見に行こうと数人で出掛けた、道路の山側にバラ線が張ってある。
どうも我々日本の残存ゲリラを、山中に閉じ込める為らしく思えた。
明りで良く見ると、所々に白い板がぶら下がっている。
それには『オフ リミット デンジャー オブ ザ ジャップ』
日本兵が危険だからバラ線より外に出るなと言う意味だった。
 
日本兵を閉じ込めたのではなく、敵が自分達の縄張りにゲリラの
侵入を防ぐ為に張ったものと分かった。
白い板の字はジャングルを背にしており、不注意にゲリラのいる地域に
出ないよう、張り巡らしたものである事が分かった。
 
その頃から、ジャングルの木の枝にビラが下がり出した。
『今後、山中にいる日本兵は山賊と見なし処分する』
我々はゲリラから敗残兵そして山賊になりさがってしまったのである。
 

負 傷

 

202月頃 龍部隊整備の緒方兵長が私共の洞窟に仲間入りして来た。
彼は洞窟の突き当たりの下に出来た穴に入った。
そこは畳1枚以上あり広さは十分で、個室と言った感じの場所だった。
 
ある日、彼が缶詰があった所を知っていると言うので、
中玉利と私の3人で出掛けた。
マルポの北側の抑留民の畑の先だという。始めての所は、様子が分からず、
気持ちが悪かったが緒方兵長がついているので心強かった。
竹を組み合わせて柵を作りトマトが植えてある。月の光で赤く熟れた
トマトが見える、帰りに取って帰ろうといって先に進む。
 
先の方に民家の残骸が見える、近くまで行って様子を見る。
残骸のトタン板が風に揺られて音を立てている。私が3人の真ん中にいた、
 3人共しゃがみ、何時もの様に小石を投げてみる、
トタン板に当りカタン・カタン・カタンと三回音がした。
そよ風に揺れるトタンが微かに音を立てている。
敵は居ない様子だったので立ち上がろうとした所を猛烈に撃たれた。
 
私は左足をやられて左に倒れ、次に腰にも一発食らった、
背中にも当った様だ。体全体に大きな物がぶっつかった様で
グアーンとしている。
両親、弟妹の顔が一瞬、走馬灯の様に過ぎ去っていった。
本能的に反対側に走った、痛さは分からなかった、只動けるだけ動いて
その場から遠ざかった。
 
それは極々一瞬の出来事だった、暫くして撃たれたんだなーと思った。
力を振り絞って、左足を引きずり腰を押さえて、トマトの柵を突っ切って
走った。途中、中玉利が足をやられたと言いながら合流して来た、
緒方兵長とも出会い凹地にて休み中玉利の足を見た。
 
右の靴の先の左の部分がえぐれている、靴を脱がして見たら小指の外側に 
血豆が出来ただけだった。
弾が靴に当った衝撃が強かったのでやられたと思ったらしい、
血豆程度で良かった。私は左足と腰と背中が痺れている。
ゲートルまで血が滲み出ている、ゲートルを解き手で触ってみた、
痺れて感覚がなく大きく腫れ上がっている。
 
血でべとべとで親指と人差し指が両端からはいる穴があいていて
弾が貫通したのだった、血は止まっている。
腰から背中にかけて棒を打ち込まれた様に痛む、腰の真後ろの
仙骨の部分に指先程の傷がある丈で余り血も出ていない、腰から
背中の左半分は蒲鉾をくっつけた様に半円形に腫れ上がっている、
腫れた一番上の肩甲骨の下に堅い物が手に触れるが、それが何かは
分らなかった。
  
その夜は2人に肩を組んでもらい、足を引きずり腰を押さえ、
休み休み洞窟に帰った。
その日は缶詰めは手に入らなかったが、洞窟に帰る途中、
緒方兵長がトウモロコシをドンゴロス一杯とって来てくれた。
 
背中の半円形の腫れは、腰に当たった弾が、背骨に沿って筋肉の中を
肩甲骨のあたりまで上がって止まった事がわかった。
し弾が腰から腹に貫通していれば命は無かったと思えば
ぞっとする思いである。
 
ヤンキーの包帯包といって野戦用応急処置材の薬剤により手当てをした。
図入りの説明書があり、英語は読めなくても使い方は良くわかった。
ヤンキーに撃たれたのだが拾ってきたヤンキーの包帯包に助けられるとは
何たる事か。薬のお陰で「うじ」もわかず幸いだった。
 
暫くは全然体を動かせず、食糧探しに行くこともできず3人に
食べさせて貰い感謝している。程無く体は回復した。
しかし、背中の弾が歩く度に動いて痛く、荷物を背負った時は物が
当たって痛く長い間苦しんだ。
46

投降勧告

 

昭和206月カロリナスの東海岸にいた雉部隊の
大高分隊士以下20数名が集団で投降したというニュースを
住吉神社で聞いた。
 
 その頃、我々は「きっと艦隊がくるんだ。今は不利だが神風が吹いて
日本軍が勝つのだと思いこんでいた」
その矢先に集団投降したとは情け無いものだと思った。
しかしその後ぞくぞく投降するものが出て、住吉神社に集まるものが
少なくなってきた。
 
その後、投降した大高分隊士が、ヤンキーの兵隊を連れて
洞窟に投降の勧誘にきた。
彼等はいつも煙草やチョコレートを持って来て、餌で敗残兵を
釣り出していった。何処の洞窟には誰がいると分かっているので
たまらなかった。我々の洞窟もいつ襲われるか不安だったが、
大高分隊士等と我々は従来からの交渉がなく、彼等は住吉神社周辺の
洞窟を殆ど知らなかったので助かった。
 
また次のような話しもあった。投降勧告を何回か受け、
ついに断り切れずまた、移り住む洞窟も見付からないので、
収容所に馴染めなかったらジャングルに帰してもらうことを
約束して投降したものがいたという。
 
暫く収容所で生活したが、亡き戦友を山のジャングルに残してきた
という呵責の念に堪え切れず、帰してほしいと申し出た。
米軍は暫く困り抜いていたが、約束だからと渋々ジャングルに
帰すこととなった。ジャングルに帰す日、アメリカの少佐が、
捕虜の戦友共々カロリナス台上の道が尽きるまで送り、
別れ際に少佐が56箱の煙草と携行食糧の缶詰を何箱か与え、
「山が嫌になったら何時でも出てきてくれ」といって握手をして別れた。
 
煙草と缶詰の箱を担いでジャングルに向かう彼を米兵と
捕虜の兵隊たちは黙って見送っていたという。
の後の彼の情報は入らなかった。
それにしても、日本兵の戦友愛と信義を重んじる米兵の話しは
我々のすさんだ心をなごませるものがあった。
 
47

 

私が負傷した頃、隣の洞窟では大変な事が起ろうとしていた。
隣の洞窟の海軍軍属の長野海軍(仲間の間で長野海軍と呼んでいた)
の様子がおかしくなり、頭が大分いかれていると言う。
 
昼間突然艦隊が来たと言って騒ぎだす事があると言う。
寂しさの余り発狂したらしい。彼は度々ヤンキーの新聞を持ってきて、
読んで聞かせて呉ていたが、最近は全々来なくなっていた。
 
彼は海軍の設営隊の班長で、高等商業学校を卒業した優秀な人材で、
塵捨て場から拾って来たライフや新聞をよく読んでくれていた。
 長身で身嗜みの良い上方出身の紳士だった。洞窟での裸の生活で、
身に付ける物はなかったが身嗜みの良さは滲み出ていた。
とかして助けてやりたいと思い、最後の手段として幹線道路まで
連れて行きヤンキーの手に渡してやれば、十中八九は助けて貰えるのでは
ないかと思った。
がしかしその彼も、生活を共にした仲間に始末されてしまったのである。
全く良い男をなくしたものである。
 

洞窟を襲われる

 

208月中頃、今まで、ヤンキーがジャングルに来るときは、
発砲しながら歩いていたのが、近頃は発砲もせず、
ゴトゴト歩く岩の音や器物をひっくり返す音などだけで、
様子が変わっていた。
 
夕方外に出てみると、付近の洞窟が荒らされることが多く、
 急にアメリカ兵の洞窟あらしが始まったようであった。
 
今まで約1年間、全然敵兵に見付からなかった難攻不落の我々の
洞窟も遂に発見されてしまった。
入り口近くの穴にいた緒方兵長が1番に気付き『敵が来た』
といって来た、話し声が聞こえ岩がごとごといっている。
 
直ぐに奥の岩の割れ目にもぐり込む。
今度はヤンキーが中まで入ってきて物をあさっている様子だった。
暫くごそごそしていたが出て行った。その間我々は気が気でなく、
命の縮まる思いだった。
今までならば、手榴弾の23発投げ込まれていたはずだが、
今回はそれが無く事なきを得たが、この洞窟も住んで居れなくなり、
ミイラが穴の入り口の番をしている付近にあった洞窟に引っ越して
みたが、中の様子が思わしくなく、住めなかった。

黍畑の生活

 

いっそ、灯台下暗しで敵の飛行場の近くが安全だろうという事で、
住み慣れたカロリナスのジャングルを後にして、中央台地の敵陣から
 1キロ程離れた砂糖黍畑の中に移り住んだ。
 
この畑は焼かれる事もなく緑の葉を沢山つけていた。
畑の真ん中に2人づつ分散して、砂糖黍を寄せ合わせてその下に
テントを張り、畝の間に板を渡し、1人が寝て座れるだけの場所を作り、
敵に発見されないように充分偽装した。
 
炊事は全然出来ないので、生芋をかじって過ごした。
敵に近く、ヤツ等の声が聞こえたりジープが走ったりで、
昼間は寝る事ができず1日中1人で、トランプ占いをして過ごした。
 
トランプを繰りながら郷里の父母兄弟、会社の事などを
思い浮かべていると、ガサッ・ゴソと音がしている。
 
ヤンキーならば大声でガヤガヤ言って来るのが普通だが、
声がしないのはおかしい、音は途絶えながらだんだん近付いて来る。
水筒とドスを付けたベルトをしめ、食糧の入った雑納を背負い、
 息を殺して身構えた。
テントから出て様子を見る、急に近くでガサッと大きな音がして
振り向いた時、豚がトンキョウな顔をしてこちらを向いていた。
ああ良かったと思った瞬間、豚はびっくり仰天して一目散に
スッ飛んで逃げて行った。
48 

背中の弾の摘出

 

今年2月に私が負傷してから約半年、傷も完全に癒えた。
あの時は、立上がりかけたとたんに左足を撃たれ、そのまま横に倒れ、
 腰の仙骨に当たった弾が骨に斜めに当たって骨を貫通出来ず背骨に沿って
背中の上まで上がり肩甲骨の下で止まったのだった。
 
 背中に止まった弾は背中から半分飛び出していて、外から触って
弾の格好が良くわかる様になった。
その弾を半年間だいじに背負って歩いた、歩く度に弾が動いて痛む。
また、弾が半分背中に飛び出しているので、荷物を背負ったとき、
芋や水入れの一斗缶が当たり痛くて閉口した。
安全かみそりの刃で切って出してくれと頼むと、『よし来た』と
引き受けてくれたが、刃を握って暫く背中を撫で回していたが
『止めた』と言って、誰1人切ってはくれなかった。
仕方なく我慢して背負って歩いたのだった。
その後砂糖黍畑で生活していた時、弾の中の鉛が皮膚を腐食して
膿が溜り黄色くなってきた、愛知県出身の宮地軍曹が、
指で強くグンと押して出してくれた。
この時もヤンキーの包帯包の薬が役に立った。

ブルに襲われる

 

9月上旬だったと思う、朝から我々が潜伏していた黍畑の周辺を
ブルドーザーが動き回っている。様子がおかしいので、
身支度をして待機する。
 
午前中は無事に過ぎ、昼飯に干しパンをかじって居ると
ブルの音が少しかわって来た。どうも近寄って来るらしい、
ントから出て立ち上がって見て驚いた、黍がこちらに向かって
ばさばさと倒れて来る。
しまった、やられたと思い畝に沿って畑の端に来た。
畑から出た途端に四隅に兵隊が待ち伏せていて一発でやられると言う事を
聞いていたので恐る恐る顔を出して見るが敵はいない。
 
ソレッと飛びだし草むらに飛び込んで身を隠した。
するとブルの運転手が天幕を見付け、『ジャップジャップ』と
叫んでいる、一刻もじっとして居られない。
ヤンキー集まって来てがやがや言いだした。
 
草むらつたいに身を隠しながらジャングルに飛び込んで一息ついた。
夜になって中玉利と稲尾が来て3人が揃った、皆無事だった。
敵も不意の出来事だったらしい。
四隅で待ち伏せるのは敗残兵掃討の時だとわかった。
そして最早敗残兵掃討の時代ではなく、お陰で今回も助かる事が
できたのであった。
 
干しパンが幾らか有ったので当分このジャングルに居る事にした。
長くカロリナスのジャングルで生活して来た我々にはジャングルの
洞窟が落ち着けて良かった。しかし、ここのジャングルには洞窟が
なかったので天幕を張って雨露を凌いだ。
敵に近く遮蔽物もないので、炊事は出来なかった。
 
或夜、猛烈な台風が来た。
天幕は縛っても縛っても飛ばされる、岩影で風雨を凌ぎながら、
様子を見ていたが何時の間にか3人共眠り込んでしまっていた。
気がついた時は、夜が明け、天幕は紐1本で繋がりジャングルの上で、
ひらひらと舞っていた。
  
慌てて天幕を片付け終わった時、ジープが来て45人降りて来た。
銃でジャングルを盲めっぽうに打ちまくっている。
暫くして、彼等はトランシットとポールを持って測量を始めた。
安全だと思った敵の近くは、悩まされる事が多かった。
それは現在の幹線道路の測量に間違いなかった。
 
49

パート5へ続く