この様な飛行機の航空隊に勤務する事は、非常に名誉な事だった。
龍部隊は昭和18年7月1日に編成され、私たちが配属になった12月は
鹿屋基地で猛訓練を開始していた。
我々車庫の分隊(自動車部隊)も猛訓練と同時に猛烈にシゴカレル事に
なった。
日課はともかくとして、下士官達の自慰の為の制裁としかいえない制裁で、
海軍では『軍人精神注入棒』という、野球のバット様の木の棒で
尻を叩くのである。
中には叩かれて再起不能ではないかと思われる者も出る始末で、
無茶にも程があった。
上等兵が1人再起不能で退役し、私どもの同年兵も2人が逃亡した。
今叩かれている者もやがて下士官になり、仕返しの為に叩くという
順繰りのものであった。
明けて昭和19年、正月は元日だけが休みで帰郷は許されなかった。
1月下旬になって休暇があり郷里に帰って、父にバリカンで散髪
してもらいながら「この髪を残しておいたら」といってみたが、
『その必要もなかろう』と父は言っていた。
(生きて帰れとの父の願いだったのか、父の千里眼か、
おかげで私は九死に一生を得て帰還したのだった)
それから父母兄弟に別れを告げて帰隊した。
その後、龍部隊全員で鵜戸神宮に参拝、武運長久を祈願し、
2月上旬航空母艦『千歳』にてテニアン島向け鹿児島湾の古江港を発進した。
私は出港当日朝、尻を叩かれた。
起重機車を運転して航空母艦千歳の待つ古江港に向かう途中、
尻の痛さに耐えかねて古江の坂道で運転を誤り、
約10m下の川に転落して負傷し、鹿屋航空隊の病室に入室したので
皆に遅れてテニアンに行くこととなった。
およそ2ヶ月で傷も癒え3月末に退室した。
その間僅かな給料だったが貰っていなかったので煙草も買えず閉口して、
家から少し送ってもらった事を覚えている。
輸送機を手配してもらい10人乗り程のダグラスの小型機に、
千葉県の館山航空隊まで便乗させて貰った。
途中風雨となり気流が悪く、何度もエアポケットに落ちてバウンドし、
その度に積み荷も上下に踊っていた。
そして、かろうじて館山空(館山航空隊)にたどり着いた。
館山空の司令は搭乗員に天候の悪い時は飛ぶなと注意していた。
館山空に1泊させて貰い、翌日汽車で千葉県の香取航空隊に向かった。
到着してようやく龍部隊の残留部隊(留守部隊)に辿り着くことが出来た。
テニアンに何回も行った人達らしく真っ黒く日焼けして頼もしい人達だった。
サイパン・テニアンに行く人達が10人ばかり待機していた。
飛行場には鹿屋航空隊で見慣れていた一式陸攻がおり、
これで連れていってやると言われて安心した。
しかし今日は現地の天候が悪い、今日はマリアナ地方は空襲の恐れ有り、
などでなかなか飛行機は飛ばなかった。
私は南洋に行くので冬の被服は全部返納し、冬物を持たず、
夏服を重ね着して寒い吹き曝しの中で震えていた。
4月9日になり横浜からサイパン行きの飛行機が出るので
横浜に行けといわれ移動した。
我々便乗者10人は、4月10日の夜は横浜の旅館に1泊した、
当日は異常寒波で雪が降っていた。
翌日の早朝、横浜航空隊に移動し二式大艇に便乗する。
初めての飛行艇である。
飛行艇はトロッコに乗せて陸上に引き上げてあった。
上艇前に体重測定があり、指定された場所に着席し、
シートベルトを着用する。機内は上下の2階に別れていた。
全員配置に付きトロッコは斜面を下ろされる。
機は海に浮かぶ、発動機が始動され爆音が響き渡り、ゆっくりと走りだす、
暫く旋回して走り、波を立ててから発動機を全開して飛び立った。
離水し易くするために波立たせるのだという。
暫く飛行し巡航高度になったところで、シートベルトが解除された。
搭乗員からメモで「小笠原列島上空、左舷下は八丈島」と連絡がはいる。
硫黄島を過ぎて暫く島影のない海原の上を飛んだ。
昼食をとり、暫くすると機内が暑くなって来た、重ね着していた服を
少しづつ脱いだがそれでも暑く、搭乗員に送風を頼む、
通風口から涼しい風が流れて来てほっとする。
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